最高のNBAシーズン:レブロン時代の頂点

しばらく寝かせてからブログに書く

ここのところ、毎週日曜日にブログを書くようにしている。

ウィーク・デイにブログのネタを思いつくと、はてなブログにタイトルと概要を書いてをドラフトとして保存するようにしている(そうしないとすぐ忘れてしまう)。週末、ドラフトのなかから実際にブログとして仕上げるタイトルを選んでいる。週一回の更新だと、実際にブログにするタイトルより、ドラフトとして保存するタイトルの方がずっと多くて、現在15本のドラフトがたまっている。

どんどん新しい事件が起き、新しいタイトルを思いつくから、保存しているドラフトの鮮度はあっという間に失われていく。しかし、このブログはしばらく時間が経ってから「記録」として(主に自分自身が)読み返すことを想定しているから、鮮度はあまり重要ではないと考えている。むしろ、しばらく寝かせて、鮮度が失われてもなおかつ書く意味があると思えるタイトルを書こうと思っている。

鮮度という意味では、Brexitについて書くべきなのだろうけれど、まだ生々しすぎる。今日は先週決着がついたNBAファイナルについて書こうと思う。

最高のNBAシーズン

1990年代から断続的にNBAを見ているが、自分にとって今年はそのなかでも最高のシーズンだった。

1990年代以降のNBAの歴史を大雑把に分類すると、1990年代はマイケル・ジョーダン時代、2000年代はコービー・ブライアント時代、そして、2010年代はレブロン・ジェームス時代となる。そして、今シーズンはコービーの引退ツアーに始まり、カリーとウォリアーズが新しいスタイルのバスケットを見せてくれて、ファイナルのウォリアーズとキャブスの試合は中身が濃く、特に第7戦ははげしかった。贅沢なシーズンだった。

ジョーダン時代に比べると日本でのNBAの人気は下がっているように思うけれど、最近のNBAは、プレーの質に関してはずっと充実しているので、見逃すのはもったいないと思う。

レブロン時代からカリー時代へ?

ウォリアーズは、昨シーズンファイナルでレブロンのキャブスに勝って優勝し、そのままの勢いで今シーズンはレギュラー・シーズン最多勝記録を更新、カリーが満票でMVPを獲得した。

カリーのハイライトビデオのリンクを貼ってみた。彼は、とにかくドリブルでディフェンスを外すのがうまく、遠くからのシュートが驚くほどよく入る。ハイライトに取り上げられているプレーの中では地味かもしれないけれど、12位(4:18〜)のプレーは、ディフェンスの外し方とシュートのうまさがよく表現されたカリーらしいプレーで好きだ。

レブロンは、地元のキャブスに戻ってファイナルで優勝することを残りの選手人生の目標に掲げていたが、昨シーズンのファイナルでは、刀折れ矢尽きる形でウォリアーズに敗れた。

レブロンがこれから大きく成長することは難しいけれど、カリーとウォリアーズは伸びしろがあるから、彼の目標は達成するのが難しくなっり、このまま、レブロン時代が終わり、カリー時代になってしまうのか、と思っていた。


Stephen Curry's Top 30 Plays of the 2015-2016 Regular Season!

レブロンのハードワーク

しかし、キャブスが1勝3敗になってからのレブロンはすばらしかった。特に、彼のハードワークぶりが強く印象に残った。

両チームを通じてレブロンのプレイタイムがいちばん長い。オフェンスではドリブルをしてボールを運び、アシストのパスを出し、ここぞというところでは一対一の勝負を仕掛ける。アウトサイドからのシュートもあり、インサイドに切り込むこともある。

特に、カリーと一対一になったときには、どんどん身体をぶつけていき、体格に劣るカリーはかなり苦しそうだった。第6戦ではカリーはレブロンとの一対一でファウル・トラブルに追い込まれていた。ディフェンスでもリバウンドを競り、ブロックショットを決めた。カリーに対してもファイナルで6回ブロックをしている。この二人でのマッチアップでは完全にレブロンが上回っていた。


LeBron James - All 6 Blocks On Stephen Curry (2016 NBA Finals) ᴴᴰ

ファイナルを通じていちばん印象に残ったレブロンのプレーは、第7戦の終盤にイグダラのレイアップを防いだブロックショットだった。ファイナルの試合は日本時間だと午前中なので、会社から帰ってきた後に録画したものを見ていた。結果はわかって見ているのだけれども、第7戦はドキドキしたし、このプレーが出た瞬間は息を飲んだ。


LeBron's Clutch Block on Iguodala | Cavaliers vs Warriors - Game 7 | June 19, 2016 | 2016 NBA Finals

記憶に残るシーズン

何年かに一回、記憶に残るシーズンがある。

例えば、2009年、松井秀喜ワールドシリーズMVPを獲得し、最後にヤンキースがワールドチャンピオンになったシーズン。2013年、田中将大が無敗で楽天を日本一に導いたシーズン。

今年のNBAは記憶に残るシーズンになった。

テレビ報道の公平性

BBCの「EU離脱」に関する報道

NHK-BSやスカパーでBBCのニュースをよく見ている。最近は、当然ながら「EU離脱」に関する報道が多く、なかなか興味深い。

BBCとしては「EU離脱」に対して中立的な立場を保っている。残留派、残留派の双方の政治家に対するインタビューも多い(なかなか厳しい質問をする)し、それではなく、市井の人々の意見も丹念に取材している。例えば、ある日のニュースでは、農家の「EU離脱」に関して異なる立場の農家を取材していた。

イギリスのなかでもかなりの大規模の農家で、東欧からの農業労働者を雇用している。実際にジャガイモを選別するラインで働いている農業労働者の様子も取材しており、彼らに対してインタビューもしていた。この農家は、自ら東欧の農業労働者を雇用するだけではなく、他の農家へ農業労働者を斡旋するビジネスもしている。この農家(農家というよりは農業経営者といった方がよさそうだが)は、当然、ヨーロッパのなかで自由に人間が移動できるEU残留に賛成している。

次に紹介された農家は、EU共通農業政策に不満を述べていた。EUは手厚い農業保護政策で知られているが、環境保護政策にも熱心で、補助金の見返りに作付る農作物や農法にさまざまな制約がある。この農家はその規制に反対しており、EUから離脱してイギリスとしての望ましい農業政策を実施すべきだと主張していた。

手厚い共通農業政策の継続を望む農家が多いのだろうかと漠然と考えていたけれど、別の観点からの賛否があることがわかり興味深かった。

日本のテレビ報道だったらどうなるだろうか

いま紹介した二つの農家の報道のように、連日、さまざまな観点でEU離脱に関する情報が提供されている。私は投票する訳ではないけれど、イギリスのさまざまな側面についての理解が深まった。

日本のテレビで、このように広く、深い報道ができるだろうか。正直に言って、大いに疑問がある。

例えば、安全保障法制が審議されていたとき、日本の安全保障について理解を深める絶好のチャンスだったけれど、BBCのように「広くて深い」報道ができただろうか。例えば、賛否双方の立場からの主張をじっくりと(きびしい質問も含め)聴くインタビューができていただろうか。また、安全保障法制は諸外国と深い関わりがあるけれど、米国、中国、台湾、韓国(北朝鮮は難しいだろうけれど)、ASEAN諸国の政治家、有識者の意見などは紹介されていただろうか。まったく不十分だったと思う。

テレビ報道の公平性の確保

政府や自民党がテレビ報道の偏向を問題視し、報道内容に介入していると言われている。実際にどこまで介入されているのかわからないけれど、客観的に見て民放のテレビ報道は偏向していると思う。少なくとも、BBCのように報道の公平性を担保しようとする配慮に欠けていることは明らかだろう。

BBCのキャスターは基本的になにかの問題に対する見解や是非は述べない。また、日本の民放の報道番組のような「コメンテーター」は登場しない。事実を伝え、また、専門家や政治家などに対するインタビューを放映する。場合によってさまざまな立場の論者を集めた討論を報道することもある。

放送時間は有限だからすべての出来事を報道することはできない。どのニュースを取り上げるか、その選択する時点で恣意性は排除できない。だから、BBCも完全な報道の公平性を確保することは不可能だ。また、インタビューも編集をしているから、そこに意図が入り込む可能性がある。しかし、仮に「偏向している」という指摘があった場合、それに対して「このように公平性を確保している」と説明はできるようにしている。

日本の民放の報道番組は、BBCに比べると素朴すぎるように思う。ある一定の政治的立場の「コメンテーター」のコメントを中心に放映すれば、「偏向している」という批判を招くし、それに対して正面切って反論するのは難しいだろう。

政府や自民党の介入に対する反対はあっても、自らの報道番組が変更していないという反論は目にしない。

テレビ報道の偏向の原因は何か

それでは、なぜ、日本の民放のテレビ報道は偏向するのだろうか。私はテレビ報道制作の内側についてはまったく知らないから、これから書くことはあくまでも推測である。

日本の民放テレビ局は、新聞社の系列となっている。新聞社は放送局と違い法律で報道の公平性を求められることはない。実際に、それぞれの新聞社で一定の政治的な立場がある。テレビ局の報道については、それぞれの系列の新聞社の影響を強く受けているように見える。例えば、系列の新聞社のOBが「コメンテーター」になることが多く、出身の新聞社の傾向に沿ったコメントをすることが多い。

そして、やはり、BBCに比べると、日本の民放の報道の現場は、予算、人材、時間が圧倒的に限られているのだと思う。最初に紹介したBBCの農家に関する報道は、かなり手間をかけて丁寧に作られていた。現状の日本の民放ではそこまでの取材をするのは厳しいのだろうと思う。できて街頭インタビューや世論調査の紹介ぐらいで、多様な人々の意見とその背景をしっかりと報道することはできない。そして、「コメンテーター」のコメントに頼るのは、結局のところ、それが安上がりだからなのではないか。

そう考えると、民放のテレビ報道が、政府や自民党に対して「偏向していない」と正面切って反論できる日は来そうにもない。

一視聴者として

私個人、一視聴者としては、テレビの報道が偏向していることはあまり気にならない。新聞社も含め、基本的にはすべてのジャーナリズムは多かれ少なかれ偏向しているものだと考えている。その前提に立って、さまざまな立場の報道を比較して自分なりの理解を得ることがリテラシーだと思う。

日本の民放の報道はそれぞれの立場から偏向しているけれど、大きく見れば日本の報道全体が一定の方向に偏っている。また、もちろん、BBCも含め諸外国の報道は、それぞれの方向に偏っている。

世界のニュースを解説を付けずに最低限の編集をしただけで放送しているNHK BS「ワールドニュース」はそれぞれの国の報道の違いがよくわかって興味深いし、リテラシーを養うために非常によい番組だと思う。放送される国の数も徐々に増えており、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、ロシア、スペイン、中国、韓国、カタール、インド、ブラジル、オーストラリア、シンガポール、香港、インドネシア(見落としている国もあるかもしれない)のニュースが放送されている。

東アジア、東南アジア関係のニュースは、シンガポールの放送局はバランスの取れた見方をしていると思う(日本、中国、韓国、香港の報道は多かれ少なかれ党派的な色合いが強い)。また、ブルームバーグは、すべてのニュースを経済への影響という観点からのみ語り、また、さまざまなデータのチャートの紹介が充実していて、他のニュースで見ることができない個性がある。インドのニュースを見ると、その他の国の放送局ではまったく紹介されないニュースが報道されていて、世界は広いとしみじみ思う。

ベン・フォールズを全部聴く:平凡さを「ロック」する

ベン・フォールズを全部聴く

今年に入っていから、Google Play Musicで特定のミュージシャンの音源を「全部聴く」ということをしている。

これまで、ビートルズとメンバーのソロ活動、トーキング・ヘッズとデイヴィッド・バーンとトム・トム・クラブ、プリンス、そして今、ベン・フォールズベン・フォールズ・ファイブを全部聴き終わったところだ。 

yagian.hatenablog.com 

yagian.hatenablog.com

 好きな楽曲、ミュージシャンはたくさんあるけれど、改めて「全部聴く」ことで、私自身が今いちばん共感できるミュージシャンはベン・フォールズなんだ、ということを再確認した。

シンプルなセットで演奏力が高いバンドが好きだ。ベン・フォールズはギター抜きピアノ、ベース、ドラムのトリオで最高に「ロック」している音楽を聴かせてくれる。

特に、ベン・フォールズがソロ時代のライブツアー「ベン・フォールズ・ライブ」では、サポート・メンバーなしで、ベン・フォールズひとり、ピアノ一台で演奏している。これは最高にロックしている。


Army - Ben Folds Live

同級生のロック・ミュージシャン:カート・コバーンベン・フォールズ

ベン・フォールズに共感するのは、音楽が気に入っているからだけではなく、彼の人生や歌詞に自分を重ね合わせることができるからだ。

ベン・フォールズは1966年9月生まれで、私と日本の学年でいうと同級生にあたる。彼が同世代ということで共感できるところがあるのだろう。しかし、カート・コバーンも1967年2月生まれで同級生なのだが、あまり共感できない。

カート・コバーンは自分が「ロックスター」になることに強く抵抗していたけれど、それと裏腹に「ロックスター」のステレオタイプをなぞるような人生を歩み、若くして自殺してしまった。そういう彼の苦しみは理解できないわけではないけれど、深く共感するかといえば、やはりそうではない。

カート・コバーンが自殺するのが1994年。一方、ベン・フォールズは世にでるまで時間がかかり、ベン・フォールズ・ファイブのデビュー・アルバムが出せるようになったのはカート・コバーンの死後の1995年だった。

ベン・フォールズの音楽は個性的ですばらしいと思うけれど、外見も含めて「ロックスター」としての魅力に欠ける。ややあがった額をぼさぼさに伸ばした髪で隠し、メガネをかけている。Tシャツやネルシャツとジーンズを無造作に着たファッションはグランジといえなくもないけれど、彼はギークにしか見えない。

カート・コバーンと比べ、彼は伝説的な死を遂げることはなく、デビューしてから今まで紆余曲折しながら音楽活動を続けている。若いころは自分の非「ロックスター」性を自虐したような曲も多かったけれど、歳を経て歌詞も曲調も変化してきている。

彼がアルバムを出すたびに聴き、また、日本に来日するたびにライブに足を運び、彼もいろいろあるけれどがんばっているんだよな、と思う。これまでも彼と伴走してきたような気持ちがあり、おそらく、これからもそのようにして彼の音楽を聴き続けるのだろうと思う。

平凡さを「ロック」する:"Rockin' the Suburbs" 「住宅街をロックする!」

ベン・フォールズは、ベン・フォーズル・ファイブ(「ファイブ」といいながらトリオのバンド)でデビューし、このバンドが活動停止をしている時期にソロ活動をしている。

ソロとしての第一作のアルバム"Rockin' the Suburbs"の表題作の歌詞を紹介したいと思う。平凡さを「ロック」した、彼の非「ロックスター」性についての歌だ。


Ben Folds - Myspace Gig - Rockin' the Suburbs

"Rockin' The Suburbs"

「住宅街をロックしてやる」

Let me tell y'all what it's like

教えてやるよ

Being male, middle-class and white

中流の白人男性ってどんなものか

It's a b*tch, if you don't believe

最悪だぜ、信じないかもしれないけど

Listen up to my new CD (Sha-mon)

オレのニューアルバムを聴いてくれ(Sha mon)

 

I got sh*t runnin' throught my brain

どうでもいいことが頭を駆けめぐり

It's so intense that I can't explain all alone in my white-boy pain

オレの白人の痛みを自分ひとりで説明なんかできない

Shake your booty while the band complains

バンドが文句を言っている間に、お前らはケツを振れ

I'm rockin' the suburbs

住宅街をロックしてやる

Just like Michael Jackson did

マイケル・ジャクソンみたいにな

I'm rockin' the suburbs

住宅街をロックしてやる
Except that he was talented

ヤツには才能があったけど
I'm rockin' the suburbs

住宅街をロックしてやる
I take the cheques and face the facts

オレは金を受け取って

That some producer with computers fixes all my sh*tty tracks

プロデューサーがコンピューターでオレの曲をいじりまわす

 

I'm p*ssed off but I'm too polite

ムカついたけど、お行儀よくしてた
When people break in the McDonald's line

マクドナルドの行列に割り込まれて
Mom and Dad you made me so uptight

ママとパパのしつけのせいで
I'm gonna cuss on the mic tonight

今夜はマイクで叫んでやる

I don't know how much I can take

どれだけやれるか自分でもわからない
Girl, give me something I can break

そこの娘、オレにぶっこわすものを渡してくれ

 

I'm rockin' the suburbs

住宅街をロックしてやる
Just like Quiet Riot did

クワイエット・ライオットみたいに

I'm rockin' the suburbs

住宅街をロックしてやる

Except that they were talented

ヤツらには才能があったけど

I'm rockin' the suburbs

住宅街をロックしてやる
I take the cheques and face the facts
オレは金を受け取って

That some producer with computers fixes all my sh*tty tracks

プロデューサーがコンピューターでオレの曲をいじりまわす

 

In a haze these days

最近ぼんやりしながら

I pull up to the stop light

ステージに上ってる
I can feel that something's not right

なにかまずい感じ

I can feel that someone's blasting me with hate

誰かがオレに憎しみを爆発させてるみたいだ

And bass

ベースが
Sendin' dirty vibes my way

オレにへんなノリを送ってくる

'Cause my great great great great Grandad

オレのひいひいひいじいさんが

Made someones' great great great great Grandaddies slaves
誰かのひいひいひいじいさんを奴隷にしたからって

It wasn't my idea

オレには関係ない

It wasn't my idea

オレには関係ない

Never was my idea

ぜんぜん関係ない

 I just drove to the store

オレは薬局まで
For some Preparation-H

痔の薬を買いに行っただけなんだ

 

Let me tell y'all what it's like

教えてやるよ

Being male, middle-class and white

中流の白人男性ってどんなものか

It gets me real p*ssed off, it makes me wanna say

マジでうんざりするぜ、

F*CK!

ファック!

 

Just like Jon Bon Jovi did

ボン・ジョビみたいに

I'm rockin' the suburbs

住宅街をロックしてやる

Except that they were talented

ヤツらには才能があったけど

I'm rockin' the suburbs

住宅街をロックしてやる
I take the cheques and face the facts
オレは金を受け取って

That some producer with computers fixes all my sh*tty tracks

プロデューサーがコンピューターでオレの曲をいじりまわす

 

These days

最近

Yeah yeah

イェィ、イェィ

I'm rockin' the suburbs

住宅街をロックしてやる

 

You'd better look out, because I'm gonna say 'F*ck'

よく見てろ、ファックって言ってやる!

クラシックカーとなることを拒絶するクルマづくり

クラシックカーのリストア番組でトヨタ車が取り上げらることはほとんどない

以前のエントリーで、「ディスカバリー・チャンネル」(https://japan.discovery.com/index.html)で、クラシックカーをリストアすることをテーマとする番組がたくさん放映されており、特に「名車再生!クラシックカー・ディーラーズ」(https://japan.discovery.com/series/index.php?sid=1036)が気に入っていると書いたことがある。

この番組はイギリスで制作されているから、当然イギリス車が多く取り上げられている。そのほか、ドイツ車、イタリア車、フランス車、スウェーデン車などのヨーロッパ車、そして、アメリカ車も取り上げられることが多い。それらに比べると日本車が取り上げられることは圧倒的に少ない。

日本車で取り上げられたものとしては、日産GTR、240Z(フェアレディZ)、マツダRX-7、スバルインプレッサなど、安くて速いというイメージがあるクルマが取り上げられている。トヨタ車が取り上げられることはほとんどない。

yagian.hatenablog.com

トヨタ車のテクニカル市場の圧倒的な占有率と実用性の高さ

クラシックカー番組で取り上げられないといっても、トヨタ車が中古車市場でリセールバリューがないか、というと、そんなことはない。

アフリカや中東の戦場でよく使用されているピックアップトラック重機関銃や無反動砲を据え付けた車両を「テクニカル」と呼ぶそうだ。テレビでの報道で映るテクニカルを見ると、トヨタ車の比率が非常に高いことに気が付き、インターネット上のテクニカルの画像を集めたことがある。一目瞭然だが、トヨタ車の市場占有率は圧倒的である。

テクニカル市場では、究極の実用性、費用対効果が求められる。その市場での圧倒的な占有率は、耐久性や修理部品の入手可能性なども含めたトヨタ車の極めて高い総合的な実用性を証明しているのだと思う。

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トヨタユニクロの共通性:クラシックカーとなることを拒絶するクルマづくり

私自身は、実用的な意味では自動車が必要ない生活をしているので、自動車を持っていないし、当面買う予定もない。しかし、「名車再生!クラシックカー・ディーラーズ」を見ていると、実用性度外視で欲しいと思うクルマもある。当然、実用的な性能は新車と比較すればクラシックカーは劣っているが、クラシックカーには実用的な性能とは別の価値がある。

トヨタ車の実用的な価値は世界的に認められ、多くの中古車が流通しているけれど、クラシックカーとして認められないのは、そもそもトヨタのクルマづくりが、実用的な性能とは別のクラシックカー的な価値を拒絶しているのではないかと感じることがある。そして、その姿勢は、ユニクロに共通するものがあるように思う。

ユニクロの服にはファッション性はない(というと言い過ぎだとすれば、ファッション性が乏しい)が、ヒートテックに代表されるように機能性の高さがウリである。それまで機能性が高い服といえば、スポーツウェアメーカーのもので、価格もそれなりに高かった。ユニクロはファッション性はないけれど、手頃な価格で機能性が高いという新しいポジショニングで成功した。私自身、ユニクロのアウターは買う気がわかないけれど、インナーはユニクロ率が高い。

もし、生活の変化があって実用的な意味でクルマが必要になるとしたら、何を買うのか想像することがある。費用対効果を追求すると、ユニクロのインナーを買うように、中古のヴィッツを買うことになるかもと思うことがある。おもしろさやファッション性はないけれど、車輪が四つ付いていて、高速道路も安全に走れる、移動のための実用性という意味では必要十分ではないか。

実用性とクラシックカー性はトレードオフなのか

ユニクロの服は、それほどコストアップしなくても、もうちょっとファッション性を高めることができるような気もする。機能性も高く、ファッション性もあって、値段も手頃になればもっと売れるようになりそうだし、なぜそうしないのかな、と思うこともある。しかし、仮にユニクロがファッション性を高めると、逆に売上が下がってしまうのだろう。

ユニクロのユーザーは、そもそもユニクロにはファッション性を期待していない。洋服のファッション性に無関心な人は多く、そのような人にとっては「おしゃれな店」は入りにくい。だから、ユニクロがおしゃれになると、そのようなユーザーが離れていってしまう。だからユニクロはあえてファッション性を高めないようにしているのではないだろうか。

トヨタ車がクラシックカーとして評価されるクルマを作らないのは、同じような配慮があると思う。トヨタ的実用性とクラシックカー性はにトレードオフがあるのだろう。トヨタは、クラシックカーになるようなクルマを作ることは、トヨタユーザーの拡大に結びつかないという判断を下しているのかもしれない。

「日本的ものづくり」?

実際、「名車再生!クラシックカー・ディーラーズ」に取り上げられているイギリス車のメーカーの多くは、「クラシックカー性」によってブランドは存続しているけれど、会社自体は買収されている。だから、カーマニアには評価されないかもしれないけれど、トヨタのポジショニングはひとつの選択肢なのだろう。

あまり根拠なく「日本的なんとか」ということを言うのは好きではないのだが、トヨタユニクロのようなポジショニングは、海外から見た日本のステレオタイプのひとつになっているような印象がある。

身体は飢餓に備えている:節制生活継続中

減量節制生活その後

一昨年の8月に「減量節制生活中」というエントリーを書いた。

 

yagian.hatenablog.com

 このエントリーでは、これまで20数年間ダイエットとリバウンドを繰り返してきたが、今回の「減量節制生活」では目標の60kgに到達できそうだ、と書いた。

いまのところ、リバウンドせず、体重をコントロールする生活が継続できている。いまの目標は、筋肉を増やして体脂肪率を下げ、太りにくい身体をつくることである。現在、体重は56kg、体脂肪率は16%程度。体重は維持して、体脂肪率を15%以下にできればいいかなと思っている。

身体は飢餓に備えている

健康のために意図的にダイエットをしなければならない、ということは、考えてみれば不思議なことである。もし、人間の本能が適切であれば「身体の欲するもの」を食べることで健康体が保てるはずである。しかし、本能のままに生活していると太ってしまい、生活習慣病のリスクが高まる。

私の仮説は、現代人の身体は、まだ、採集狩猟生活に適応していて、農耕生活に対応できていない、というものだ。

身体は、基本的に、飢餓に備えている。食料が手に入れば、できるかぎり食べて、脂肪の形で蓄えようとする。筋肉はエネルギーを消費するから、必要最小限にしておきたい。だから、脂肪の形で蓄積することが容易な糖質や炭水化物に対しては、当座必要な分量以上の食欲が湧く。また、ある筋肉を継続的に使うとその筋肉は発達するが、使わなくなるとすぐに衰えてしまう。

農耕生活に入って炭水化物が豊富な穀類が大量かつ継続的に手に入るようになると、本能に任せて生活をすれば必然的に体脂肪が増えていく。また、意図的にトレーニングをしなければ必要最低限の筋肉量になり、太りやすい体質になってしまう。

採集狩猟生活とダイエット法

食事、運動と体重、体脂肪の関係を、身体は採集狩猟生活に適応している、という仮説に立つと、さまざまなダイエット法の真偽が見えてくるように思う。

 一般的に、栄養バランスのよい一日三食の食事が健康によいと言われている(厚生労働省農林水産省が「食事バランスガイド」という目安を発表している)。しかし、どのような「バランス」がよいのだろうか、また、一日三食という習慣はごく近代的なもので、採集狩猟生活で実現していたとは思えない。

www.maff.go.jp

採集狩猟生活の栄養バランスを考えると、大量の穀類を摂取することはないから、農耕生活での糖質、炭水化物摂取はかなり過剰になっていると思う。採集狩猟生活でもある程度の糖質、炭水化物を摂取しているだろうから、完全に糖質、炭水化物を断つ必要はないだろうけれど、糖質、炭水化物の摂取を減らすローカーボ・ダイエットは理にかなっている。糖尿病は、農耕生活での糖質、炭水化物の大量摂取に身体が適応できていないことによる病気と考えることもできるだろう。

植物油やバターから脂質を大量に摂取することも採集狩猟生活の観点から見ると「不自然」ということになる。しかし、脂質が直接そのままの形で体内の脂肪になる訳ではない。その意味で、ダイエット法において過剰な脂質の制限は必要ないだろう。

筋肉を増やすためには、タンパク質だけではなく、ある程度のカロリーの摂取も必要らしい。今は「飢えている」時期だと身体が判断すると、カロリーを消費する筋肉を増やさないという。だから、体重を積極的に減らす減量期が終わったら、炭水化物を制限したぶん、脂質も含めてカロリー補う必要がある。

断食や8時間ダイエットは、食事が不規則で「飢える」時期がある採集狩猟生活に似た状況を再現すると考えることができるだろう。断食や8時間ダイエットそのものが「減量」に直接効果があるかどうかはわからない。食事に何らかの制限を課せば自然と摂取カロリーも減少するから、その効果で「減量」している可能性が高い。

しかし「飢え」を感じることは悪いことではないと思う。かなり節制をしていた減量期明けに、久しぶりにフレッシュネス・バーガーを食べたとき、口の中にあふれる肉汁が異様においしく感じられたことがあった。これは、たぶん、採集狩猟生活で久しぶりに獲物を狩ることができ、その肉にかぶりついた時の快楽なのだろう。

節制生活継続中

それでは今は何に気をつけて生活をしている紹介したい。

減量期を終え、筋肉を増やす時期に入っていることもあり、以前ほど食事のカロリーは気にしないようにしている。体重、体脂肪率を見ながら、直感的に食事の量を調整している。炭水化物を減らし、タンパク質を増やし、脂質は自然な食欲に任せるようにしている。

食事は一日三食食べている。断食、8時間ダイエットはしていない。朝型なので、早起きをして朝にトレーニングをしていることもあり、朝食を抜くと会社で仕事をするのが辛くなるということもある。なるべく低血糖による空腹におそわれないようにきちんと食事を摂ることにしているけれど、空腹になったときはあまり我慢せずに軽く栄養補給している。これはまたそのうち考え方を変えるかもしれない。

トレーニングは、週に2回自宅で筋力トレーニング、週末に水泳、週1回エアロバイクに乗っている。「減量節制生活中」は、比較的長い時間ゆっくりと有酸素運動をすることに重点を置いていたが、今は、水泳、エアロバイクもインターバルトレーニングにしている。以前に比べれば体力がついた実感もあり、トレーニングの強度は高くなっている。

今は比較的安定した節制生活が継続している。またあと一年ぐらいしたら振り返ってみようと思う。現在とはまた違った形の生活になっているだろう。リバウンドしていなければいいけれども。

明るい「貧乏」:「キューバ・アメ車天国」(ディスカバリー・チャンネル)

最近、地上波で見たい番組がほとんどない

最近、地上波で見たいと思う番組がほとんどない。特に、民放のバラエティやドラマはまったく見る気が起きない。

NHK-BSで海外制作のニュースやドキュメンタリー番組、スポーツ中継を見ることが多い。特に、世界各国のニュース番組をそのまま並べて放送している「ワールドニュース」は、それぞれの国の興味関心、事情がよくわかり非常に興味深い。

その他、スカパーでCNNやBBC、そして、マニアックなチャンネルをいくつか契約している。例えば、「ミュージック・エア」というチャンネルは、クラシック・ロック、ソウルのドキュメンタリーやライブを延々と放送していて、思わず時間を忘れて見入ってしまうことがある。

なぜかクラシックカーをリストアする番組がおもしろい

スカパーのマニアックなチャンネルの中でいちばん見ている時間が長いのは「ディスカバリー・チャンネル」(https://japan.discovery.com/index.html)である。

このチャンネルではクラシックカーをリストアすることをテーマとする番組がたくさん放映されていて、どれも楽しく見ている。私自身は、もう自家用車を手放して10年以上経つし、ハンドルを握るのも旅行先でレンタカーを借りる時ぐらいで、年に1回程度で、決してカーマニアではない(車好きとも言えないレベル)。しかし、エンジンから異音がするクラシックカーからメカニックがヒビの入ったマニホールドを交換している様子を食い入るように見ている。自分でも理由がわからず不思議である(司会者やひな壇芸人がいないことが清々しくてよい、という理由はある)。

クラシックカーリストア番組の中でも「名車再生!クラシックカー・ディーラーズ」(https://japan.discovery.com/series/index.php?sid=1036)がいちばん気に入っている。調子のいい(しかし目利きで交渉がうまい)中古車ディーラーのマイクが難ありのクラシックカーを激安で購入し、(腕利きの)メカニックのエドが文句をいいながらも修理、整備をして、最後に転売して利益を得るという内容である。なかにはコストに糸目をつけずに非現実的なリストアをする番組もあるけれど、これは最後に利益を得ることが目的になっているので、市場価格から逆算してリストア費用の予算を決めているので、その制約が番組のおもしろみを高めている。

 これらの番組でクラシックカーを眺めていると、現代の自動車がまるで魅力のないものに見えてきてしまう。もし、次に自動車を買う必要が生じたら、もう、実用性のみを考えてヴィッツかフィットの中古で十分だなと思う一方、趣味で自動車を買うんだったら(お財布を無視すれば)1967年式のマスタング・ファストバック(映画「ブリット」でスティーブ・マックィーンが乗っていた)か、ジャガーモデルEのコンバーチブルだなと妄想したりする。

キューバ・アメ車天国」

最近、ディスカバリーチャンネルで「キューバ・アメ車天国」(https://japan.discovery.com/series/index.php?sid=1516)という番組がはじまった。この番組は、単にキューバでのクラシックカーレストア事情ににとどまらず、背後にある社会や歴史、生活といったことを考えさせられる非常に興味深い内容である。

 1959年のキューバ革命以降のキューバに対する経済制裁のため、アメリカ車が禁輸となった。キューバアメリカ車の人気は高く、その時点でキューバを走っていた自動車がメンテナンスされなれながら現在でも大切に使われている。しかし、メンテナンスするための部品類が絶望的に不足していて、使えるものはなんでも工夫して使っている(まさに「ブリコラージュ」!)。

この番組の主人公の一人がリストアしようと格闘している1959年式キャディラックには、なんとボート用の重量が大きいディーゼルエンジンが搭載されていた。重すぎるためシャーシにダメージを与えており、エンジンを交換しようとする。当然ながらエンジンの入手も困難を極める。なんとか手に入れたエンジンはFF用のものなので、これをFR用に改造しなければならない。そのまえにエンジンが起動するかテストをするためにはバッテリーとエンジンオイルがなければいけないが、これを入手するのがまた一苦労である(自動車に関する部品がこれほど不足している割には、登場人物が普通にスマホは持っているのが不思議な感じがする)。

「貧乏と貧困は違う」(by 湯浅誠)

年越し派遣村を主催していた湯浅誠は「貧乏と貧困は違う」という言葉を使っている。「貧しくても幸せ」なことはありうるし、また、「貧しくて困った状態」こそが「貧困」だという。

私の大学時代の専攻は文化人類学だったけれど、そのなかで研究されている社会は、現代の先進国と比較すれば物質的な意味では相対的に「貧乏」である。そういった社会をロマンティックな視線を向けるのも危険ではあるけれど、そのすべてが「貧困」だった訳ではないだろう。

歴史的に過去に目を向ければ、同じように現代に比較すれば相対的に「貧乏」だけれど、やはり同じように「貧困」だった訳ではない。自分の生まれ育った環境のことを考えても、現代と比較すれば明らかに「貧乏」だったけれど、幸いなことに「貧困」ではなかったと思う。

キューバの明るい「貧乏」

あくまでも部外者の表層的な印象であるけれど、「キューバ・アメ車天国」の世界は現代のアメリカに比べると圧倒的に「貧乏」だけれど、明るい「貧乏」という印象がある。

必要な部品が手に入らなかったり、リストアのための費用が工面できなくなったりするとき、そのことに対して、いらだち、嘆く。キューバという国や彼ら自身の「貧乏」が、その主な原因である。しかし、彼らは人生のなかで、これまでも同じような事態に多々直面してきたし、それをなんとか乗り切ってきたという体験に支えられているためか、ひとしきり文句を言うと立ち直ってリストアをすすめるために前向きに奔走をする。

番組の中で、クラシックカー愛好者のイベントが紹介される。公園に自慢の愛車を持ち寄り、簡易なテントを張ってビールを飲みながらドミノを楽しみ、最後は音楽をかけてサルサを踊る。手作りの素朴なイベントだけれども、参加者はみなとても楽しんでいるように見える。

ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」の「貧乏」と「8マイル」の「貧困」

映画「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」は、独立後は活躍する場を得られず「不遇」をかこっていたキューバの腕利きのミュージシャンたちが、ライ・クーダーのプロデュースでレコードを録音し、海外で活動する場を得るまでを描いたドキュメンタリー映画である。

彼らは、再びスポットライトがあたり、一山当てて「貧乏」から抜け出せるかもという事実に素直に興奮している。しかし、「貧乏」で活躍の場所がなかった不遇時代であっても、ずいぶん苦労はしているけれど、生活がすさんでいるようには見えない。

これに比べ、エミネムの青年期をモデルとした映画「8マイル」に描かれたデトロイトは、治安も最悪、コミュニティや家族も崩壊状態、公共サービスも欠乏していて、単なる「貧乏」にとどまらない「貧困」としか呼べない荒んだ状態になっている。

どちらの映画も音楽によって「貧乏」から脱出する物語ではあるけれど、その雰囲気は大きく異る。この差は何が原因なのだろうか。 

ブエナ☆ビスタ☆ソシアル☆クラブ [DVD]

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8 Mile [DVD]

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 アメリカ・キューバ国交回復と明るい「貧乏」のその後

アメリカとキューバの国交が回復され、経済制裁が解除されれば、キューバの経済状況は劇的に改善する。

国全体としては大幅に豊かになり、所得格差もあっという間に広がるはずだ。その時、キューバの明るい「貧乏」はどうなるのか見てみたいと思う。ハバナのなかにも「8マイル」の境界線ができてしまうのか、所得格差が広がっても明るい「貧乏」は明るい「貧乏」のままなのか。

「貧困」や「格差」の問題を考えるときに、言い方は悪いけれど、絶好のケーススタディのチャンスではないかと思う。

「グローバリズム」の歴史的展開:「インディアスの破壊についての簡潔な報告」を読んで

グローバリズム」の歴史の起点

近年「グローバリズム」の是非について語られることが多いけれど、「グローバリズム」は昨日今日はじまったことではない。「グローバリズム」の問題について考えるためには、現代の「グローバリズム」だけに着目するのでは十分に理解できないと思う。そこで、ここ数年、「グローバリズム」の歴史的展開や、現代と過去の「グローバリズム」を比較するため、関連する本を少しずつ読み進めている。

それでは、「グローバリズム」の歴史的な起点はどの時期にあるのだろうか。モンゴル帝国によってユーラシア大陸が一体化した時期を「グローバリズム」の起点とする見方もある。マルコ・ポーロ東方見聞録」のヨーロッパと中国を往復した旅行は、このモンゴル帝国の成立によって可能になったものである。また、帝国主義によって世界が分割され、本格的に一つの市場に統合された19世紀半ばを「グローバリズム」の成立期とする見方もある。

イマニュエル・ウォーラーステインは、現代の世界はヨーロッパを中核とした「近代世界システム」に覆われていると指摘している。この「近代世界システム」は、モンゴル帝国と直接的な関係は深くない。また、19世紀半ばを起点とすると、なにゆえヨーロッパが「近代世界システム」の中核となり得たのか、その起源、由来を見ることができない。そこで、私は、「近代世界システム」の起点であるクリストファー・コロンブスが新大陸航路を、ヴァスコ・ダ・ガマがインド航路を発見し、大航海時代が本格的に始まった15世紀末から16世紀初頭以降の「グローバリズム」の歴史を追いかけている。

マルコ・ポーロ 東方見聞録

マルコ・ポーロ 東方見聞録

 

 

 16世紀のコンキスタドールの過剰な残虐さ

最近、ラス・カサス「インディアスの破壊についての簡潔な報告」を読んだ。この本は、キリスト教聖職者ラス・カサスが、スペイン人コンキスタドール(征服者)による「新大陸」での略奪、虐殺の状況を告発したものである。「グローバリズム」の歴史の最初期の状況がよくわかる。

ラス・カサスは「私は人間業とは思えない、凶暴な獣が行うような数多くの非常に忌まわしくて恐しい残忍な所業を語るのに疲れた」と書いているが、実際、次から次へと残虐な略奪、虐殺の記述が続き、読むのもいささか疲れる。ラス・カサスはコンキスタドールを告発することを目的としているから、特に残虐な事例を集めていたり、誇張しているところはあるだろう。しかし、本書は同時代の記録であり、スペインが植民化した西インド諸島で先住民が絶滅していることは歴史的事実だから、略奪、虐殺が一般的に行われていたことは疑い得ない。

現代人である私の目から見ると、なにゆえコンキスタドールがここまで残虐な行動をしたのか不思議に感じる。ラス・カサスによれば、コンキスタドールは先住民を支配するために恐怖感を与えることを目的としてあえて残虐なことをしたという。しかし、先住民が絶滅してしまえば、コンキスタドール自身も略奪、収奪する対象がなくなってしまい、むしろ困るのではないだろうか。

インディアスの破壊についての簡潔な報告 (岩波文庫)

インディアスの破壊についての簡潔な報告 (岩波文庫)

 

 18世紀の探検者の過剰な科学性

一方、コンキスタドールの略奪の200年後、18世紀の探検者キャプテン・クック「クック太平洋探検」を読むと、先住民に対する態度が大きく変化していることがわかる。

 クックたち探検者と太平洋の先住民との関係は必ずしも平和なものばかりではない。クック自身もハワイでの先住民とのトラブルによって殺害されてしまう。また、ニュージーランドマオリ族とのトラブルで、太平洋探検に参加したアドベンチャー号の乗組員10名が殺害される事件も起こっている。

当然、クックは、先住民とはかなり慎重に接触しているし、必要であれば銃器によって威嚇をし、場合によっては懲罰を与えたり、殺害する場合もある。しかし、「インディアスの破壊についての簡潔な報告」に見られるような過剰な残虐さはない。先住民への威嚇は、現代人の目から見ても合理的な範囲に収まっている。

クックの主な任務は測量だから、詳細な海図を作成しているようだ。しかし、その任務の範囲にとどまらず、先住民の文化に対しても詳細な観察をし、膨大な記録を残している。コンキスタドールに対してはなにゆえそこまで先住民に対して残虐なのか不思議に感じるが、クックに対してはなにゆえそこまで先住民を詳細に観察しているのか不思議である。探検隊に求められた範囲、必要性を超えた過剰な科学性があるように思う。

クック 太平洋探検〈1〉第一回航海〈上〉 (岩波文庫)

クック 太平洋探検〈1〉第一回航海〈上〉 (岩波文庫)

 

 過酷な身体刑から近代的な合理的な刑罰へ

ラス・カサス「インディアスの破壊についての簡潔な報告」の残虐なエピソードの羅列を読みながら、ミッシェル・フーコー「監獄の誕生」を連想した。

「監獄の誕生」によると、近代以前、犯罪は王への反逆とみなされており、刑罰は王の権力を顕現させるための見世物としての過酷な身体刑だったという。ラス・カサスは、コンキスタドールによる先住民に対する拷問、処刑を繰り返し報告しているが、おそらくその当時のスペインにおいても同様の残酷な見世物としての過酷な身体刑が行われていたのだろう。

一方、18世紀後半、ブルジョワジーが台頭とするとともに、犯罪は財産権への侵害となった。そして、処罰の目的が犯罪の防止となり、犯罪と処罰を合理的に対応させた法体系の整備が進んだ。これはまさにクックの先住民に対する態度に対応している。

コンキスタドールが彼ら自身の個性として残虐だったわけではなく、その時代のスペインの残虐さが新大陸でも発揮されたものであり、また、キャプテン・クックの冷静さもブルジョアジーが台頭した時代背景に裏付けられたものなのだろう。

監獄の誕生―監視と処罰

監獄の誕生―監視と処罰

 

 

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 金儲け主義と資本主義の精神

マックス・ヴェーバープロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」によれば、「金銭欲の衝動」は普遍的に存在していたという。「金銭欲の衝動」に基づく「金儲け主義」においては、利潤は個人の欲望のために消費されてしまったり、金銭欲が満たされるとそれ以上働こうとしなくなったりする。

しかし「資本主義」は単なる「金銭欲」に基づく「金儲け主義」とは大きく異る特徴がある。「資本主義」では、利潤は欲望のために消費されず、次の「金儲け」のために再投資され、その結果、ますます「金儲け」が進み、資本が持続的に膨張し続ける。

欲望のために金儲けする、金銭欲が満たされると働かなくなる、ということは、ある意味合理的で自然な行動である。一方、利潤を再投資し、「金儲け」それ自体が自己目的化する、ということはかなり不自然な行動である。マックス・ヴェーバープロテスタンティズムの倫理が、このような資本主義の不自然な行動の背後にあると指摘している。プロテスタンティズムの倫理が資本主義の背後にあるというマックス・ヴェーバーの学説は現代では否定されているようだけれども、資本主義が不自然なストイシズムに支えられているという指摘自体は正しいと思う。

コンキスタドールの行動原理は、短期的に金を得ることに集中している。ひとつの地域で略奪の限りを尽くし、そこが荒廃すると次の地域に移っていく。同じ地域から継続的に収奪することは考えていない。これは前資本主義的な「金儲け主義」そのものだと思う。

コンキスタドールと比較すると、キャプテン・クックの過剰な科学性は、資本主義の不自然なストイシズムに繋がっているように見える。直接「金儲け」に結びつかないような詳細な調査報告は、中長期的には継続的な資本の増大に結びつく。現在の中南米が北米と比較して低開発の状態にあるのは、スペインの植民地主義が資本主義の精神にかけていたことも原因のひとつだろう。

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

 

  

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 「グローバリズム」の歴史的展開

ラス ・カサスが描く16世紀のコンキスタドールの残酷な略奪、殺害は、前近代的、前資本主義的な文化、精神に結びついている。一方、18世紀のキャプテン・クックの探検は近代的、資本主義的な精神に支えられている。

「インディアスの破壊についての簡潔な報告」の表紙に「形態は変貌しつつも今なお続く帝国主義と植民地問題への姿勢をきびしく問いかける書である」と書かれているが、この本に描かれているコンキスタドールと近代の帝国主義植民地主義には断層があるように思う。

18世紀の近代資本主義の成立は「グローバリズム」のもっとも大きな転換点のひとつなっている。コンキスタドールキャプテン・クックの比較で見たように、ヨーロッパからその他の世界へのアプローチのありようも大きな変化が起きている。