Airbnbのストーリー:地に足がついた展開

朝はポッドキャストを聞き、夜は音楽を聴く

朝の通勤の時は、まだ元気があるので、たいてい英語のポッドキャストを聞いている。

夜帰宅する時は、リラックスしたいので、たいていGoogle Play Musicで音楽を聴いている。

iPodでは、ニュースを聞くこともあるし、まとまったインタビューを聞くこともある。最近、"The 25 Essential Podcasts of 2016"という記事を見つけ、そのなかで紹介されているNPRが提供する"How I Built This"というポッドキャストを試しに聞いてみたところ、非常におもしろかった。

www.esquire.com

"How I Built This" by NPR

このポッドキャストは、なにか新しいサービス、事業を起こした起業家などにその経緯をインタビューするものらしい。

いちばん新しいエピソードはAirbnb。その他、InstagramやRadio Oneなどの創設者にインタビューをしている。そのうち本になりそうなテーマをいちはやく取り上げている。

www.npr.org

Airbnbのきっかけ

Airbnbの創設者Joe Gebbiaは、デザイン系の出身で、一時期はブックデザイナーとして働いていたそうで、ITの専門家でも、ホテルや旅行業界に携わっていたわけではないらしい。

Airbnbのアイデアを得たのは、実際に自分の部屋に直接の知り合いではない人を泊めることになったことがきっかけだったという。最初はいろいろ不安になったけれど、実際にやってみると、悪い経験ではなかったそうだ。

その後、サンフランシスコでデザイン系のコンベンションがあり、ホテルが満室になったというニュースを聞いた。そこで、ホテルに泊まれない人に部屋を提供することを考え、デザイン系のウェブサイトに部屋に泊める(80ドルで)広告をだしたところ、すぐに申し込みがあったという。

Airbnbのサービス立ち上げ

SXSWが開催される時期も、いつもホテルが満室になる。そこで、Airbnbの原型になるサービスとして、部屋の貸し借りを仲介するウェブサイトを立ち上げた。これが、Airbnbのサービスの始まりである。

次に、2008年民主党大会がデンバーであり、もともとホテルのキャパシティが少なく、バラク・オバマの演説を聞くために多くの人が集まり、ホテルが満室になるのが確実で、キャンプする人もでる見込みだった。このタイミングで、クレジットカードでの決済サービスを付け加えたAirbnbのサービスをローンチした。このときは、100名程度が利用した。

この実績を踏まえ、投資を得る最適なタイミングと判断して、投資家にコンタクトをする。10本のメール、5件のコーヒーミーティングがあったけれど、投資に至ったのはゼロ件だったという。知らない人に部屋を貸す人がいるのか、という疑問を乗り越えられなかったようだ。

投資を得られず、クレジットカードからの借金でやりくりをして、 そしてサイドビジネスで大統領選にちなんだ"Obama O's"と"Captain McCain"と書かれたカードの入ったシリアルの企画販売をはじめて資金繰りをなんとかしのいでいたという。

www.businessinsider.com

Airbnbの飛躍、ゲーム・チェンジ

その後、ベンチャーキャピタルのY Combinatorの支援を受けられるようになった。これがゲーム・チェンジになったという。

Y Combinatorはスタートアップの指導に力を入れている。Y Combinatorに「マーケットはどこにある、すぐにそこに行け」といわれ、当時もっともAirbnbの登録者が多かったニューヨークに飛んだ。

そこで、Airbnbに掲載されている貸主の部屋の写真が見栄えがしないことに気が付き、彼はデザイン系の学校で写真のクラスを取ったこともあり、部屋の写真を撮るサービスをすることにした。

カメラを持って貸主の部屋を訪問した。彼らが撮った写真のおかげで「貸主が、これが自分の部屋?」というぐらいにサイト上見栄えが劇的に改善した。また、この時、貸主とじっくりと話ができて、彼らの立場をよく理解することができたという。

部屋の写真の改善、貸主の意見を取り入れたサイトの改善をすると、すぐに売上が2倍に増加した。世界からニューヨークを訪れてAirbnbを利用した人が、それぞれの都市に戻って今度は貸主としてAirbnbを利用するようになった。

それ以降は投資のオファーも増え、順調に成長している。

地に足がついた展開

Airbnbのストーリーを見ていると、地に足がついた展開をしている、と思う。

Airbnbというと「シェアリングエコノミー」の旗手、のような扱いをされている。しかし、実際のストーリーは、ハイテクを使ったふわふわしたコンセプトで投資を得ているのではなく、自分が実際に体験した課題とその解決策を一歩一歩拡大していることがわかる。

世の中に広がるサービスは、やはり、どのようなテクノロジーを使っているか、ではなく、利用者にとって切実な課題が解決される、利便性が高まる、非常に楽しい、といったところが重要なのだと思う。Y Combinatorの「マーケットはどこにある、すぐそこに行け」というアドバイスによってゲーム・チェンジが起きたことも示唆的である。

地に足がついた展開だなと思った。

独裁的な政権による秩序か、民主的な政権による混乱か

混迷が増すシリアの情勢と日中戦争下の中国の情勢

今回もアメリカとロシアと停戦交渉が破綻し、アサド政権とロシアによるアレッポへの爆撃が激化している。

シリア内戦は、国内のさまざまな勢力がそれぞれ外国と結びつき、混迷が増している。ある種のバランスが成り立ち、膠着しているとも言える。だから「解決」は遠いように見える。

このシリアの情勢を見ていると、日中戦争下の中国の情勢とよく似ていると思う。

その当時の中国では、国内は国民党(国民党自体も軍閥の寄せ集めで勢力争いが錯綜していた)、共産党軍閥が争っていた。国民党をドイツ(後に支援を打ち切る)、アメリカが支援し、共産党ソ連が支援する。ソ連共産党に国民党と協力して対日抗戦をすることを指示し、その過程で国民党へ支援することで影響力を持った。日本は軍閥と提携しつつ、満洲から中国へ侵略する。国民党内で蒋介石に不満を持ち、対日講和を構想していた汪兆銘に傀儡政権を設立させる。

結局、日本は第二次世界大戦に破れ日中戦争は終結するが、その後、国民党と共産党による内戦が続く。日中戦争は1937年に始まり、1945年に終わる。第二次国共内戦は1949年まで続くから、12年間になる。さらに、第一次国共内戦が始まった1927年から数え始めれば、中国本土では22年間も国民党と共産党が関係した戦闘が続いていたことになる。

シリア内戦は2011年から始まっているから5年続いている。まだ、内戦が終わりそうな気配はない。

独裁的な政権による秩序か、民主的な政権による混乱か

内戦で混乱した地域に介入するとき、独裁的な政権であっても秩序を確立することを優先すべきか、あくまでも民主的な政権の確立を目指し一定期間の混乱には目をつぶるべきか、という一種究極の選択がある。

アメリカを中心とした西側諸国は、アサド政権による独裁は容認できないと考え、いわゆる「反政府勢力」を支援している。一方、ロシアは「民主的な政権の樹立」より自らの影響力のある政権が秩序を確立することを目指し、アサド政権を支援している。

イラク戦争でアメリカは、独裁者のフセイン政権を打倒し民主的な政権の樹立を目指したが、形式的には選挙は実施されているけれど、実態は民主的にはほど遠い。シリアの反政府勢力も、必ずしも民主的なシリアを目指しているように見えないから、仮にアサド政権を打倒できても民主的なシリアが成立しそうにない。

また、アメリカも独裁的な政権を支援している場合もある。最近は関係が悪化しているが、どうみてもサウジアラビアは民主的な政権ではないが、同盟関係にある。たしかに、サウジアラビアイラク化、シリア化すればその混乱の影響はきわめて大きい。

アメリカによる蒋介石の支援の是非

しばらく前のエントリー(「旅先で本を買う」)で紹介したRana Mitter "China's War with Japan 1937-1945 The Struggle for Survival"に、アメリカ政府内で蒋介石の国民党政権を支援することの是非に関する議論が書かれている。

アメリカ政府は蒋介石政権が独裁的だということは認識していた。その当時は「民主的」に見えていた共産党を支援すべきだという意見や、蒋介石政権を支援することの条件として民主化を求めてはどうかという意見もあったという。特に後者は現在のアメリカでもよく見かける意見だろう。

重慶に駐在していた米国大使ネルソン・ジョンソンは、蒋介石政権が当面民主化する見込みはないけれど、抗日戦争のためにアメリカは蒋介石政権を支援すべきと強く具申していた。

蒋介石は、枢軸国である日本と実際に戦争している当事者であるにもかかわらず、自らは戦争をしていないアメリカの支援が不十分なことを不満に思い続けていたようだ。そして、日本を始めとする枢軸国とアメリカが開戦することを待ち続けた。

結局、アメリカは日本と開戦し、屈服させた。しかし、国民党は共産党に破れ、共産党が独裁的な政権を作ることで内戦が終結するという、アメリカの考えとは大きく違った形で中国の戦争、内戦は決着することになった。

 

China's War with Japan, 1937-1945: The Struggle for Survival

China's War with Japan, 1937-1945: The Struggle for Survival

 

 

 

yagian.hatenablog.com

 

それでは教訓は

それでは、このような歴史からどのような教訓が導き出せるのだろうか。正直よくわからない。

おそらくシリア内戦もアメリカが望むような形で決着するとは思えない。しかし、だからといって、ロシアとともにアサド政権を支援することでシリアに「恐怖の秩序」をもたらすことが望ましいとも思えない。望むような形で決着できそうにないからといって影響力を行使することを諦めることが正しいのかわからない。その時、より望ましいと思うことをするしかないのだろうか。

力と正義の間の究極の選択の間で揺れ続けることになるのだろう。

 

yagian.hatenablog.com

 

I'm feeling lucky radioつながりで:Eels "Souljacker Part I"

Google Play Musicで音楽を聴く

ようやくSpotifyが日本にやってきた。しかし、今のところ音楽のストリーミングサービスはGoogle Play Musicで満足しているので、当面引っ越すことはないと思う。ただ、インターフェースはGoogle Play Musicはどうにもかっこわるく、それがSpotifyなみにスマートになれば言うことはないのだが。

Google Play Musicに加入する前は、iPod Classicに自分の持っているCDの音源をぜんぶ入れて持ち歩いて聴いていた。しかし、Google Play Musicに移行し、スマホで膨大な音楽をいつでも聴くことができるようになったら、音楽を聴く時間も増えたし、バラエティの幅も広がった。

Google Play Musicに"I'm feeling lucky radio"という機能がある。選曲のアルゴリズムはわからないけれど、その時に私が聴きたいと思う音楽を推定してプレイリストを自動生成してくれる。これがけっこういい選曲をしてくれる。

play.google.com

BeckからEelsにつながる

 ある日、会社を出たところで"I'm feeling lucky radio"を選んだら、Beckからはじまるオルタナティブ・ロックのプレイリストが始まった。

地下鉄に乗りながら聴いていると、知らないバンドの曲にガツンと来た。曲名を確かめたらEels"Souljacker Part I"だった。

自分は、やっぱりオルタナティブ・ロックのローファイな音、ちょっと斜に構えた歌詞が好きなんだなぁ、と思った。Wikipediaで調べてみると、Mark Oliver Everettという人がMr. Eと名乗ってやっているバンドらしく、バンド名も含めたひねくれた感じもいい。

映画音楽にもずいぶん使われているようで、"American Beauty"の挿入歌("Cancer for the Cure")にも使われているという。"American Beauty"は映画そのものも大好きだけれど、挿入歌の選曲も気に入っている(ラストのthe Beatle"Because"が非常に印象的)。Eelsというバンドは知らなかったけれど、彼らの音楽はいつのまに耳に入っていたようだ。

Eelsの代表曲を聴くべく、すっかりヘビロテ中である。

Eels - Souljacker Part I

Eels"Souljacker Part I" 

この"Souljacker Part I"のPVはヴィム・ベンダースが東ベルリンで撮ったもので、雰囲気がある。例によって歌詞を翻訳してみよう。

 

イールズ「ソウルジャッカー パートI」

22マイルの険しい道のり

33年間の不運の歴史

44個の骸骨が埋められた土地

泥の中を這いずり回る

オー イェア

 

ジョニーは先生がきらい

ジョニーは学校がきらい

いつかジョニーはそいつらに

アホじゃないってことを見せつけるだろう

オー イェア

 

姉貴や兄貴は彼氏や彼女をつくる

家族のゴタゴタは秘密

トレイラーパークは気が滅入る

家から出ることは許されない

 

サリーは父親がきらい

サリーはともだちがきらい

サリーとジョニーはテレビを見てる

番組が終わるのを待ってる

オー イェイ

 

姉貴や兄貴は彼氏や彼女をつくる

家族のゴタゴタは秘密

トレイラーパークは気が滅入る

家から出ることは許されない

 

22マイルの険しい道のり

33年間の不運の歴史

44個の骸骨が埋められた土地

泥の中を這いずり回る

オー イェア

play.google.com

努力は報われるか:クリント・イーストウッドとバッドエンディング

クリント・イーストウッドの真実」

ハドソン川の奇跡」の公開とタイミングをあわせて、スカパー「イマジカBS」でクリント・イーストウッドの特集をやっていた。そのなかで、「クリント・イーストウッドの真実」というドキュメンタリーを見た。デビューから「インヴィクタス」までのクリント・イーストウッドの歴史を、彼へのインタビューと映画のシーンで振り返るという内容だった。

クリント・イーストウッドの映画は昔から大好きで、系統的に見ている。好きな映画はいろいろあるけれど、インパクトという意味では「ミリオンダラー・ベイビー」がいちばん強烈だった。

www.imagica-bs.com

ミリオンダラー・ベイビー」はなぜあれほどまでのバッドエンディングなのか?

 ずいぶん映画は見てきたけれど「ミリオンダラー・ベイビー」ほど救いのないバッドエンディングは見たことがない。そして、なにゆえクリント・イーストウッドはあのようなエンディングを選んだのか、そして、そのことで何を表現しようと思ったのか、これまであれこれ考えてきた。

彼の映画を見ると、たしかに素直なハッピーエンディングは少ない。しかし、積極的にハッピーエンディングを拒絶している訳でもないらしく、「インヴィクタス」はハッピーエンディングである。また、「グラン・トリノ」は悲劇的に終わるけれど、主人公は報われているところが「ミリオンダラー・ベイビー」とは大きく違っている。「許されざる者」は、主人公は友人のための復讐を成就させたという意味では一種達成感がある。しかし、過去の悪行を悔いて真人間として暮らしていたにもかかわらず、復讐を成就させるために過去のような非道な人間に戻らなければならなくなり、ハッピーエンディングとは言いにくい。

しかし、「ミリオンダラー・ベイビー」は、そのような留保なく、純然たる100%のバッドエンディングだった。「ミリオンダラー・ベイビー」の前作の「ミスティック・リバー」もかなり後味が悪い終わり方で、このころはクリント・イーストウッドの映画を見るたびに打ちのめされていた記憶がある。

筋の通った生き方をすることによる人生の結末

クリント・イーストウッドの映画の主人公は、たいてい、自分の考え方(時としてかなり歪んでいる)に従った筋の通った自立した生き方をしている。しかし、自分の考え方を押し通すために、社会からは孤立していることも多い。彼の映画のストーリーの中で、孤立した主人公は心を通わせることができる人と出会い、そして別れる。別れたところで映画の結末になることもあるし、その後の話が語られることもある。

許されざる者」のビル・マニーも、「パーフェクト・ワールド」のブッチも、「ミリオンダラー・ベイビー」のマギーも、「グラン・トリノ」のコワルスキーも、「インヴィクタス」のネルソン・マンデラも典型的なクリント・イーストウッド映画の主人公である。しかし、彼らの人生の結末はさまざまだ。

おそらく、クリント・イーストウッドは、自分の考え方に従って筋の通った自立した生き方をすることが重要だと考えている。しかし、その生き方の結果は人取りではない。

「インヴィクタス」のように大きな果実を得ることもあるし、「ミリオンダラー・ベイビー」のようにまったく報われないこともある。多くの場合はその中間の結果に至る。しかし、クリント・イーストウッドの映画のなかで、マギーはネルソン・マンデラより劣っている、という扱い方はされてない。だから、生き方のプロセス、姿勢こそが重要で、その結果は重要ではない、とクリント・イーストウッドは言いたいのではないだろうか。

努力は報われるか

Blogos「努力をすれば報われる社会」と思っている人は15%にすぎない、という記事があった。

blogos.com

「努力」という言葉は人によってさまざまなイメージがあるから、かんたんにまとめるのは難しいけれど、クリント・イーストウッドの映画に従えば、ネルソン・マンデラのように努力はすばらしく報われることもあるし、マギーのようにまったく報われず、それ以上に悲惨な最期を招く場合もある、ということだろう。

個人的には、「努力」は「成果」を保証するものではないから、「成果」を目的として「努力」すると人生がどんどん苦しくなっていくことも多いのではないかと思う。

マギーがボクシングをするのは、それがなにかの「成果」をもたらすからではなく、やむにやまれない思いゆえである。フランキーがマギーのコーチをするのは、マギーが成功することを期待しているからではなく、そのやむにやまれない思いを感じ取ったからだ。

ネルソン・マンデラも、ハッピーエンディングを迎えることができたけれど、獄中にいるときは、ほんとうにそのような「成果」を得られるかわからなかったはずだ。もしかしたら、マギーのようにすべてを奪われるような悲惨な最期を遂げたかもしれないし、実際に彼の仲間の多くはそうした最期を遂げたのだろう。

努力は報われることもあるし、報われないこともある。だから、何か努力をするときは、結果を考えるのではなく、努力そのものに意味を見いだせることを選ぶべきではないか、と思っている。

時間の流れる方向

中国語検定(4級)講習会に参加した

大学時代に第二外国語で勉強をした中国語を久しぶりに勉強している。

自分に刺激を与えようと、中国語検定を受験することにした。といっても、独学なので自分のレベルがよくわからない。中国語検定協会のウェブサイトで、中国語検定の講習会を発見し、とりあえず中国語検定4級の講習会に参加してみることにした。

非常に有益だった。前回の検定の問題を一問ごと解説してくれる。4級は、今の自分の実力だと確実に合格できるとは言えないが、準備をすれば合格する可能性もある、というレベルだということがわかったし、試験対策のポイントも理解できた。次回、11月末に中国語検定の試験があるので、さっそく申し込んだ。

www.chuken.gr.jp

中国語での時間の流れの表現

講習会のなかで、時間の流れに関する表現の解説があった。

「先月ー今月ー来月」を「上个月-这个月-下个月」と表現する。この場合、時間は上から下へ流れていく。同じように「先週ー今週ー来週」は、「上个星期-这个星期-下个星期」という。以前、「上个月」って先月か来月か区別がついていなかったが、中国語では「時間は過去が上で、未来が下にある」と覚えればよい。

しかし、別の時間の流れの表現もある。「一昨日ー昨日ー今日ー明日ー明後日」は「前天-昨天-今天-明天-后天」と表現する。一昨日と明後日の部分を比較すると、「過去が前にあり、未来が後ろ」にある。

また、「朝ー夜」を「早上-晚上」、「朝食ー昼食ー夕食」を「早饭-午饭-晚饭」と表現する。この場合は、時間は「過去は早く、未来は遅い」という方向性である。

日本の中世の時間の流れ

この説明を聞きながら、世界の辺境、特に最近はソマリアのルポをしている高野秀行と、日本中世の研究者清水克行が、ソマリアと日本中世の共通点について語っている対談「世界の辺境とハードボイルド室町時代」を思い出していた。

この本の中で、時間の流れる方向に関する話題があった。現代では、未来は自分の前にあり、時間を前向きに前進して、自分の後ろに過去が流れ去っていく、という感覚が一般的だ。しかし、中世では、時間を後向きに進んでいき、未来が背後に、過去が前にある、という時間感覚もあったという。

中国語で「過去は前、未来は後ろ」という向きで表現する場合があるが、確かにこれは時間を後ろ向きに進んでいることになる。日本でも「あとで」というような表現があるが、これは未来を「後ろ」と捉えてるのだろう。

世界の辺境とハードボイルド室町時代

世界の辺境とハードボイルド室町時代

 

時間感覚と空間感覚の恣意的な置き換え

論理的には、時間の流れを空間に置き換えて表現するとき、どの方向を使ってもよいのだろう。前から後ろに流れてもよいし、後ろから前へ流れてもいい。上から下でもよいし、下から上でもよい。右から左でも、左から右でもよい。

私が「上个星期」が先週か来週かがわからなかったのは、中国語での時間感覚と空間感覚の置き換え方が普遍的なものではなく、中国語における恣意的なものだったからということだろう。

英語の"past-future"には、前後、上下の関係はなさそうだ。pastの語源には「過ぎ去る」という意味があり、futureの語源には「growやbecome」という意味があるらしい。

今日のエントリーは、ちょっと興味を惹かれたことのメモで、これ以上、特に結論はない。

ベンチャー・キャピタリストの目のつけどころ:菊池寛と芥川龍之介

スタンフォード大学留学帰国報告会で

先日、会社からスタンフォード大学に派遣されていた社員の社内での帰国報告会に参加してきた。

去年から1年間一人ずつスタンフォード大学に派遣されるようになり、今回は二人目の帰国報告会である。去年の報告会に比べて参加者が圧倒的に増え、会議室から人があふれていた。

社内でもイノベーションとかAIという言葉を聴くことが増えており、社員の関心が高まっていることを実感した。

ベンチャー・キャピタリストの目のつけどころ

報告会で、シリコンバレーベンチャーキャピタルインターンをしたときの話があった。

ベンチャー・キャピタリストが投資先を選ぶとき、特に初期の段階では、ビジネスプランも見るけれど、主として「人」に着目するという。どのような問題を解決しようとしているか、それをなぜその人が解決しなければならないと考えているのか、そして成功するまで粘り続けることができるのか。

スタートアップが成功するとき、ある時点で急激に成長するタイミングがやってくる。そのタイミングまで、3〜5年ぐらいかかるのが普通で、それまでは何をやってもうまくいかないように見える低迷の時期が続くという。その低迷の時期を抜けるまで粘り続けることができる「人」か、ということがキャピタリストの目のつけどころなのだという。

 実業家として成功した菊池寛

しばらく前、菊池寛芥川龍之介を比較したエントリーを書いたことがあった。

以前、菊池寛の小説は好きではなかったけれど、久しぶりに「恩讐の彼方に」を読んだら、優れた小説とは思わなかったけれど、村人のために岩山をくり抜こうとする主人公の了海に不覚にも感動してしまった。「芥川龍之介菊池寛と私」のエントリーのなかで「恩讐の彼方に」のあらすじをまとめているので、引用しておこう。

前非を悔いて出家した了海という僧が、難路に苦労している村人のために、岩山に独力でトンネルをくり抜こうとする話である。了海は一人で岩山にノミをふるう。村人はトンネルが実現することを誰一人信じず、彼を嘲笑する。しかし、一年経って了海がそれなりの長さのトンネルを掘っていることに気がつくと、村人たちはもしかしたら実現するかもしれないと思い直して石工を雇い了海に助力する。しかし、しばらくすると掘削の進展の遅さに諦め、石工を解雇してしまう。しかし、了海はまったく気にせず、ひたすらにノミをふるい続ける。するとまた村人は石工を雇い、また解雇し、ということを繰り返すが、了海はただ掘り続ける。村人はトンネルが半分ほどできあがっていることに気がつき、今度は本気で助力する。

芥川龍之介と菊池寛と私 - Everyday Life in Uptown Tokyo

考えてみれば、了海はベンチャー・キャピタリストが投資する際に着目する条件に合致している。解決したい問題は明確で、彼自身がその問題に取り組まなければならない理由もはっきりしておりパッションに満ちている。そして、周囲の環境の変化に左右されず、問題解決のために粘り強く取り組み続ける。

了海を、「善」を体現した人物として小説に取り上げた菊池寛は、文藝春秋の創業者として、小説家としてよりも実業家として成功した。彼自身にも了海のような資質があったのか、少なくともそのような人物を理想として目指すマインドセットがあり、それが彼の成功の要因の一部だったのだろう。

yagian.hatenablog.com  

牛のように超然と押していけなかった芥川龍之介

芥川龍之介の才気に溢れた短編小説を読んだ夏目漱石は、その小説を賞賛し、次のようなアドバイスをする。

あせって不可(いけま)せん。頭を悪くしては不可せん。根気ずくでお出でなさい。世の中は根気の前に頭を下げる事を知っていますが、火花の前には一瞬の記憶しか与えてくれません。うんうん死ぬまで押すのです。それだけです。決して相手を拵えてそれを押しちゃ不可せん。相手はいくらでも後から後からと出て来ます。そうしてわれわれを悩ませます。牛は超然として押していくのです。何を押すかと聞くなら申します。人間を押すのです。文士を押すのではありません。 (1916年8月24日 芥川龍之介久米正雄宛)

「牛は超然として押していくのです。」 - Everyday Life in Uptown Tokyo

 残念ながら芥川龍之介は「超然として押していく」ことはできなかった。

芥川龍之介夏目漱石を崇拝しており、菊池寛はそれほどでもなかったという。しかし、皮肉なことに菊池寛こそが、夏目漱石の書簡の通りに「超然と押していく」了海を主人公とした「恩讐の彼方に」を書き、また、実業界で成功することができた。

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祖父が語っていた「運鈍根」

生前、祖父が私たち孫に向かって「運鈍根」が大切だと語っていた。

夏目漱石の書簡を受け取った芥川龍之介の年齢に近かった私は、まあ、通俗的な道徳っぽい話だな、と軽く受け流していた。そして、その頃の私は、「恩讐の彼方に」は抹香臭い小説だと思い、芥川龍之介の才気にあこがれていた。

しかし、芥川龍之介に書簡を出した夏目漱石の歳になると、祖父の「運鈍根」の話の重みがわかるようになってきた。残念ながら、時間がたっぷりある若いうちにはその重みには気が付かず、気がついたときにはすでに人生の残り時間は限られている。

歳を取って見える景色がある。そして、若いうちにそれを知っていればよかったと後悔することもある。だから、若い人にそのことを伝えたいと思う。しかし、若い人はそれを理解することはできない。

おそらく、これまでも同じことはずっと繰り返されてきたし、また、これからも繰り返されるのだろう。

ポートランドあれこれ

ポートランドあれこれ

先日はポートランドの食と酒について書いたけれど、今回はそれ以外のあれこれについて書いてみようと思う。

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 ポートランドまでのエアライン

デルタ航空が、成田発ポートランド(PDX)着の直行便を運行している。今回のポートランド旅行では、直行便の値段が高く混雑していたので、バンクーバーでトランジットするエアカナダを利用した。

城北地区に住んでいると、スカイライナーが便利になったので成田に行くことにストレスはない。むしろ羽田に行くほうがスーツケースを引きずって乗り換えをするのが面倒である。

バンクーバーからポートランドまではボンバルディアのプロペラ機に約1時間。晴れていたので、マウント・レーニアやマウント・フッドを眺めることができ、ほとんど遊覧飛行だった。

トラムと散歩

空港から市内へトラムで移動することができる。行きは街の様子がよくわからなかったこともあってタクシーでホテルまで行った。空港へ行くトラムの停留所はホテルから2ブロックほどだったので、帰りにはトラムに乗って空港まで行った。

トラムの停留所にはチケットの自動販売機があり、2時間半自由に乗り降りできるチケットと1日券を売っている。検札を見かけたことはないけれど、おそらくたまにチェックをしているのだと思う。低床式のトラムに乗り降りするには階段やエスカレーターに乗る必要がなくて、荷物を持っていても移動が楽でいい。

ポートランド中心市街地はさほど広くない。食事をするのもだいたいホテルから徒歩で15分ぐらいのエリアに収まっている。夕涼みの散歩を兼ねて歩くのも気持ちがいいし、トラムでひと駅かふた駅乗ることもあった。夕方、ホテルを出てビールを飲みに行き、ホテルに帰ってくるには2時間半のチケットがちょうどよかった。

アメリカに行くといつも感じるのだが、ドライバーの歩行者、自転車優先の意識が徹底していて、きちんと一時停止をしてくれるので歩いて危険を感じることがなかった。レンタカーで市内を走っているときは、ほとんど徐行だった。

ウィラメット川沿いでジョギング

ポートランドは、オレゴン州ワシントン州の州境を流れるコロンビア川の支流のウィラメット川を挟んで発展した町である。

 泊まったホテルはウィラメット川沿いにあったので、朝、川沿いを周回するジョギングコースを走っていた。自転車とジョガー専用の道になっていて、自動車を気にする必要がなく、横断歩道もない平坦なコースだから、ジョギングには最適だった。8月でも朝夕はかなり涼しくなるし、川面と橋を眺めながら走るのは気持ちがいい。

www.mapmyrun.com

 オレゴン歴史協会(Oregon Historical Society)

旅行したとき、なるべくその土地の歴史や文化に関する博物館に行くようにしている。ポートランドにはオレゴン歴史協会の博物館があり、展示は非常に充実していた。

今回のポートランド旅行は、クラフトビールを飲みまくる、ということが大きな目的だったけれど、それだけではなくアメリカの西部開拓史の現場を見てみるという目的もあった。

アメリカが西部開拓を進めた最大の原動力はゴールドラッシュだったけれど、それ以前は捕鯨と毛皮猟が西向かって進む動機となっていた。キャプテン・クックによるアメリカ太平洋岸を探検によって、ネイティブとの交易で得たラッコの毛皮が中国の広東で高値で売れることがわかった。その後、毛皮交易をめぐって、イギリス、アメリカ、ロシア、スペインの勢力がアメリカ太平洋岸で角逐することになる。

ルイス&クラークの探検隊がアメリカ人としてはじめて陸路を通って太平洋岸に到達する。その時、ロッキー山脈の分水嶺を越えた後、コロンビア川を下り、現在のオレゴン州を通る。そして、ゴールドラッシュ以降、西海岸へ移住するためオレゴン・トレイルと呼ばれる道を「幌馬車」で移動した。

このオレゴン歴史協会の博物館では、そういった歴史をたどり、「実物」たとえば、毛皮猟をしていたネイティブのカヌーやオレゴン・トレイルの旅をした「幌馬車」の実物やそれに積み込まれた道具を見ることができた。オレゴン・トレイルの歴史を本で読んではいたが、実物を見ることで、頭のなかのモノクロの映像にカラフルな色付けができたように思う。

www.ohs.org

コロンビア渓谷(Columbia River Gorge)トレッキング

ポートランドからレンタカーでコロンビア渓谷まで行き、トレッキングしてきた。

コロンビア川は、ロッキー山脈を越える太平洋岸に向けた主要な交通路になっている。コロンビア川に沿って、かつてはオレゴン・トレイルが通り、その後蒸気船が行き交い、現在ではインター・ステイト・ハイウェイ84号線が走っている。また、約100年前に自動車道としてはじめて開通したHistoric Columbia River Highwayがあり、今でも走ることができる。

columbiariverhighway.com

 その中ほどに、コロンビア渓谷を見渡せる場所にVista Houseという石造りの展望台がある。景色も雄大で、その展望台そのものも歴史的建造物になっている。

 コロンビア渓谷には、コロンビア川にむかって支流が注ぎ込んでいる。それらの多くは滝になっている。体力にあわせてさまざまなトレイルが整備されている。自動車を停めて滝壺まで数分歩いて写真を撮って帰ってくることもできるし、本格的な登山もできる。

トレッキングになれていないこともあり、今回はマルトノマ滝から初心者向きの3時間ほどのトレッキングをした。川はかなりの急流で、渓流に沿ったトレイルはかなり厳しい上り道だった。滝壺のすぐそばに近づくことができ、飛沫を浴びると涼しくて気持ちがよかった。

Columbia River Gorge Hikes - Hiking in Portland, Oregon and Washington

太平洋へ:アストリアからエコラ州立公園

翌日、レンタカーでコロンビア川を2時間ほど下って太平洋岸まで行ってみた。ポートランドからコロンビア渓谷は晴れていたが、太平洋岸は曇っており、薄暗く、冷え冷えとしていた。

コロンビア川の河口にアストリアという町がある。アメリカ毛皮会社を設立したジェイコブ・アスターによって交易所が作られ、町の名前はアスターの名前をとって付けられた。町はずれの丘の上から町、河口、太平洋が一望できる。 ここ数年、シンガポール、マラッカ、香港、マカオ、神戸と帆船時代に作られた交易港を旅行しているが、どこも同じような立地である。湾と島に囲まれ、平地は狭く、風をさえぎり見張りができる山と丘がある。このアスターも同じような地形だった。

 アストリアにはオレゴン海事博物館(Oregon Maritime Museum)があり、キャプテン・クックをはじめとする太平洋岸の探検、毛皮交易、コロンビア川の蒸気船、コロンビア川河口での海難事故、漁業の歴史、そして、311で日本から流れ着いた漁船などが展示されている。この博物館も想像以上に充実していた。

Oregon Maritime Museum

そのあと、太平洋岸にあるエコラ州立公園から太平洋を眺めた。雲におおわれ、色がない寒々とした水墨画のような景色だった。