名著のエッセンスを3分で理解できる(かも?):読書ノートの棚卸し

読書メーターとGoodReads

あれこれ本を読み散らかしているけれど、読みっぱなしだとあっという間に内容を忘れてしまう。 どんな形でもよいけれど、その本の内容を自分なりに咀嚼してアウトプットすることが重要なんだと思う。

とはいえ、すべての本についてしっかりとしたアウトプットを作るのも難儀なので、読書メーターに記録して、かんたんな感想を書いている。

bookmeter.com

読書メーターは洋書が扱いにくいので、GoodReadsも使っている。GoodReadsは推薦図書が大人っぽくて気に入っている(あまり読めないけれど)。

www.goodreads.com

アウトプットすることが重要なので、別に公開する必要はない。けれど、インターネット上の読書記録の仕組みを使えば、あとあと検索することも楽だし、もしかしたら誰かが読書する本を選ぶ時に参考になるかもしれない。それに、虚栄心も満たされるということもある。

読書ノートを取りながら読む

ふつうの本は読書メーターの感想欄ぐらいでよいのだけれども、手応えのある本をきちんと読むには、もう少ししっかりとした読書ノートを取りながら読まないと、理解できなくなる。

今年は古典を読もうと思っているので、読書ノートを書く機会も増えるだろうと思う。さっそく、第一弾としてデカルト方法序説」の読書ノートを公開した。

このエントリーの下の方に「要旨」を箇条書きで書いている。読みながら一章(「方法序説」では「一部」という呼び方をしている)ごとに要旨をまとめている。そして、読み終わった後、要旨を読み直しながら全体の感想を書いている。

何かをきちんと理解しようと思えば、自分で原著、原資料にあたるのが、結局は近道だけど、要旨のところを眺めてもらえば、名著のエッセンスを3分で理解することができる(かも?)。少なくとも、この本を自分で読んでみようか、その判断材料ぐらいにはなると思う。

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レヴィ=ストロースミシェル・フーコー

 私の大学時代には「ニューアカ」というものが流行っており、フランス現代思想の本が売れたりしていた。しかも、大学の専攻が文化人類学だったから、レヴィ=ストロースは必読だった。

レヴィ=ストロースミシェル・フーコーは、なにか心に引っかかるところがあったけれど、当然ながらあまり理解できなかった。特に、レヴィ=ストロースでは、彼の理論の中核にある「構造」の概念がぼんやりとしたままだった。

 社会人になってずいぶん経ってから、レヴィ=ストロース「野生の思考」を読み返してみた。彼の「構造」の概念を理解するには、参考書を読むよりも、「野生の思考」をじっくり読むのがいちばん近道のように思った。自分が理解したことを「レヴィ=ストロースの「構造」とは何か」にまとめた。自画自賛だけど、けっこうわかりやすく書けているんじゃないだろうか。

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ミシェル・フーコーはとにかく難解で、読み通すには忍耐が必要だ。「言葉と物」と「監獄の誕生」を読んだ時は、一章ごとに要旨をTwitterで書いていった。途中で挫折するとかっこわるいから、それを頼りに読み進めた。

要旨と言っても、よく理解できない部分が大半だから、なんとか理解できたところをひろって辻褄があうように並べただけである。それでも、薄らぼんやりと彼が言いたいことの(ごく)一部が伝わってくるような気がする。

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明晰な丸山真男

ミシェル・フーコーは、語っている内容も難易度が高いのだろうけれど、語り口も難しい。しかし、丸山真男は難易度が高い内容を、じつに明晰に書いてあり、読んでいて爽快な気持ちになる。特に、「日本政治思想史研究」は好きな本だ。 

 日本の近代化、民主化の歴史をたどるときには、賛成するにせよ、反対するにせよ、ひとつの基準として彼の本を読まないわけにはいかない。

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アメリカのリベラリズム

今年は近代化、民主化に関する思想を、デカルト、ルソー、カントにさかのぼって読んでみようと思っている。

その大きな動機のひとつとして、以前、アメリカのリベラリズムをめぐる議論、ジョン・ロールズマイケル・サンデルの本を読んだことがある。結局、彼らの議論は西洋哲学の歴史のなかに位置づけられることができるので、彼らに先行する思想を読んでいなければ、十分に理解できないことがよくわかった。

その時はさかのぼる読書まで手が回らなかったけれど、ここで基礎を固めて、再度ジョン・ロールズ「正義論」に挑んでみようと思っている。

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グローバリゼーションの歴史 

ここ数年、大航海時代にはじまる「近代世界システム」の拡大の歴史について、本も読み、旅行で現地を訪問している。

グローバリゼーションを考える上で、イマニュエル・ウォーラーステイン「近代世界システム」の第一巻から第四巻までは必読だけれども、第一巻を読んだところで、これは世界史の基礎を固めないと、読み進んでも理解できないと思い、一時停止している。今年から来年にかけて、ウォーラーステインに再挑戦してみようと思う。

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デカルト「方法序説」を読む

デカルト方法序説」を読む

読書メーターで去年読んだ本を振り返ってみたら、時事的な読書が多かったことに気がついた。目先の興味関心に流されると、どうしてもそうなってしまう。今年は意識的に古典的な、寿命が長い本を精読しようと思う。

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今年の読書の一本の柱として、西洋の政治哲学の基本図書を順番に読んでみようと思っている。デカルト、カントからはじまり、ロールズまでたどり着くことが目標(たどり着けるかな?)。まずは、西洋近代哲学の出発点、デカルト方法序説」からスタートしてみた。

方法序説 (岩波文庫)

方法序説 (岩波文庫)

 

デカルトって頭がいい

方法序説」を読んだ最初の感想は、上から目線でおこがましいけれど、「デカルトって頭がいい」というものだった。

特に根拠はなかったけれど、西洋近代の哲学、思想は、プロテスタントに由来していると思っていた(デカルトからは「ドクサ」だって叱られそうだけど)。しかし、デカルトカトリック教徒で、スコラ哲学に基づく教育を受けていた。

そのような教育を受けていたにもかかわらず、独力でそこから抜け出す思想を作り上げたということに驚く。そして、煩瑣で複雑なスコラ哲学から、彼自身の思想はじつにシンプルだ。「方法序説」は短いし、デカルトの明晰な頭脳できれいに整理されているから、思いのほか理解しやすい。

このブログの末尾に「方法序説」の要約を付けているので、興味があればそれを読んでみて欲しい。

方法序説」と革命と社会主義

方法序説」では、西洋近代の哲学、思想、自然科学のきわめて根底にある方法論、考え方がシンプルに示されている。これを基準にして考えると、ああ、これはデカルト的な方法だな、これは非デカルト的なところが画期的なのか、といったことが理解できる。

例えば「革命」という考え方。これはきわめてデカルト的だ。デカルトは理性はすべての人に等しく与えられており、慣習によらず自らの理性を求めて真理を追求すべしと言っている。この方法を社会にあてはめれば「革命」になる。

「神々の見えざる手」によって調整される「市場」を重視する考え方は、非デカルト的だろう。デカルトが経済学を構想すれば、需要と供給とそれに対応する価格は原理的には計算しうるし、「市場」に委ねるよりは計算した方がよいと考えただろう。すなわち、社会主義デカルト的だ。

一方、伝統や市場といった集合知の働きを重視するアダム・スミスエドマンド・バークフリードリヒ・ハイエクといった人たちは非デカルト的である。

方法序説」とロジカル・シンキング

第二部に書かれている、真理を求めるための四つの教則は、コンサルティング業界のひとつの教科書になっているバーバラ・ミントのロジカル・シンキング、MECE(mutually exclusive and collectively exhaustive:ダブりなくモレなく)そのものである。おそらく、バーバラ・ミントがロジカル・シンキングを考えるときに、デカルトを基礎に置いていたのだろう。

方法序説」に示された原則はシンプルで根底的だ。それゆえ、射程が長く、応用範囲がきわめて広い。

方法序説」と機械学習

方法序説」を踏まえて考えると、機械学習がなぜ画期的なのかがよくわかる。

 これまでの科学技術は、ロジカル・シンキングも含め、主としてデカルト的な方法に基づいている。だから、科学技術で難問とされている問題は、デカルト的な方法が万能ではないことを示しているし、非デカルト的な方法を開発することができればそのような難問を解決できるかもしれない。

機械学習は、きわめて非デカルト的な方法である。例えば、顔の画像認識をデカルト的な方法でアプローチするならば、顔をそれぞれのパーツに分割し、それぞれのパーツの特徴を表現できる変数を設定し、それらを合成して顔の特徴を示すモデルを導き出すというロジカルな順序で研究を進めるはずだ(おそらく、そのような方法で顔の画像認識をしようと試みた研究は多数あるだろう)。

しかし、機械学習では、膨大な顔の画像を学習させ、いわば膨大な試行錯誤をして、結果的に顔を判別できるモデルを導き出す。なぜそのモデルが顔をうまく判別できるのかは、ロジカルな説明はできない。あくまでも結果的に判別できる可能性が高いモデルが得られた、ということだ。

また、機械が「知能」を持っているか判定する基準のひとつに、人間らしい応答ができるかどうかを調べる「チューリング・テスト」というものがある。これも、デカルトの考える知性の基準(第五部参照)に基づいていることに気がついた。

チューリング・テスト - Wikipedia

それにしても、西洋近代哲学の出発点であり、解析幾何学の開祖であるデカルトは、自らの思想の基礎に数学を置くと宣言している。日本の大学では、「哲学科」は文系の文学部に置かれていることが多いが、文系と理系の分類が意味がないことは歴然としている。

デカルト方法序説」要旨

第一部

  • 真実と虚偽を見わけて正しく判断する力、良識、理性は、すべての人に生まれながら平等に与えられている。
  • これまでの哲学(スコラ哲学)は議論が尽きることなく、その堅実性に乏しい哲学の原理を基礎としてその他の学問を築くことはできない。
  • それゆえ、学校を卒業した以後、書物による学問を放棄し、世間という大きな書物のうちに見いだされる学問を求め、真偽を識別することを学ぼうとした。
  • しかし、さまざまな実例や慣習も多様なものであり、硬く信じすぎてはならないと悟った。
  • そして、理性をくもらせる迷妄から少しずつ抜け出し、自分自身で本気で考えようと思うに至った。

第二部

  • 多様なな人たちによって組み立てらた学問に比べ、良識ある一個人が理性に基いて進める単純な推論の方が真理に近づける。
  • わたしたちを説得するものは、確実な認識より、多数の声に基づく慣習と実例である。しかし、それらは真理に対する証明にはなっていない。そこで、私は、やむをえず自分自身が考えた基礎の上に、自分の思想を構築することにした。
  • しかし、特に、自分を実際よりも有能であると信じ急いで判断をくださずにいられない人、すぐれた意見を自ら探求するよりは有能な人の意見に従うことに満足すべき人には、この道は勧められない。
  • 幾何学者が証明をするときのように、必要な順序を守り演繹をすることで、最後まで到達できないものはない。確実に直証的な根拠を見出したのは数学者だけであり、これを基礎にすべきである。
  • 真理を求めるために守るべき教則は以下の四つである。(1)速断と偏見を避け、明証的に真であると認められるまでは判断に取り入れない。(2)研究しようとする問題をできうる限り細かな多くの部分に分割する。(3)思索を単純なものから複雑なものへ一定の順序に基づき進める。(4)完全な枚挙ができ見落としがなかったか常に再検査する。

第三部

  • 真理に至るまでの間、暫定的に以下の三つの行動準則に従って生活する。
  • (1)自らの行動を、最も聡明と思われる人たちの行動と一致させる。極端な意見は避け、最も穏健な意見を選ぶ。極端な意見は悪いことが普通であり、穏健な意見がおそらくは最良のものであろう。
  • (2)可能な限り志を固くして迷わぬこと。ひとたびみずから決定した意見に対しては、どこまでも忠実に従うこと。その意見に決着させた理性は、善いもの、真なるもの、確実なものであるから。
  • (3)運命より自分に打ち勝つこと、また、世界の秩序よりは自分の欲望を変えるよう努めること。自分が権力を持っているものは自らの思想のみであり、その他のものについては最善を尽くしても成功するとは限らないから。

第四部

  • 真理の探求において、いささでも疑わしいところがあるものはすべて絶対的に虚偽のもとして退けた結果、疑うべからざるもののみが確信に残る。
  • 感覚は人間を欺くことが多く、夢に見る幻影を等しく一切を虚偽であると考えた。しかし、そのように考える「私」は必然的に何者かでなければならない。そして「私は考える、それゆえに私はある」という真理がきわめて堅固、確実であると判断した。
  • 私が疑いを持つのは、私自身が不完全であるからである。私自身が不完全であるということを知っているのは、完全なものがあって、それから知ったからだ。それゆえ、完全なもの、すなわち神は存在する。

第五部

  • 第一真理(「私は考える、それゆえに私はある」)から、光、太陽・恒星、遊星・彗星、地球、動物、人間に関する真理を演繹した。
  • 神は、世界を混沌の形に創造し、自然界の法則を設け、その法則に従って世界が現在の姿になったと考えたほうが、世界について理解しやすい。
  • 人間の身体は、ひとつの機械として見ることができ、動物の身体と共通している。理性のある精神は、機械としての身体とは独立しており、人間に特有のものである。理性の精神の有無は、言語を用いて語られる意味に対して応答することができるか、によって判別できる。これは、機械にはできない。

第6部

  • 三年前に、これらのすべてを内容とする論文を書きおわり、出版しようと考えていたが、ある人(ガリレオ・ガリレイ)が公表した自然学上の新説が禁圧されたと聞き、論文を公表する決意を翻した。
  • さらに真理を明らかにするためには多くの実験が必要だが、論文を公表することによる反論などに対応することに時間を割くよりは、自ら実験を進める方がよい。
  • 一部の試論について公表したのは、自分の行動について罪悪でもあるかのように隠蔽していると誤解を解くためである。

iPhone6バッテリー交換記

iPhone6のバッテリーの不具合

2015年2月にiPhone6に機種変更をして、今月で満二年になる。最近、急激にバッテリーの調子が悪くなった。

たいしてアプリを使っていないのに、3時間ぐらいでバッテリー残量が数%になってしまう。100%充電したところでコードを抜いた瞬間に残量が80%になり、みるみる残量が減っていく、という状態になってしまった。

Googleで検索するとiPhoneのバッテリーの問題はかなりヒットする。iPhone6のバッテリーの不具合が、アップルストアでバッテリーの交換によって解決したという記事を読み、Genius Barを予約してみることにした。

d.hatena.ne.jp

アップルストア Genius Barの予約

思い立ったのが正月休みの直前で、できれば、休み中に解決したいなと思い、アップルのウェブサイトを開いてみた。

「サポート」を選び、いくつかのページを経て、Genius Barの予約画面にたどり着くことができる。途中でApple IDを聞かれるので、あらかじめパスワードを確かめておくといい。

アップルストアApple Authorized Service Providerとなっている家電量販店のどちらも選べるのだけれども、相談したいと思ってアップルストアを選んだ。しかし、休日はほとんど予約が埋まっていた。時間を置いてアクセスしたら、アップルストア渋谷の1/3(火)の予約が取れた。キャンセルがでることもあるようだから、何回かアクセスすれば、どこかのタイミングで予約が取れると思う。

Genius Bar訪問

予約の時間の5分前にアップルストア渋谷に着いた。一階も、Genius Barがある二階もかなり混んでいた。予約していた私も多少待たされたけれど、予約なしに来た人たちはかなり長い列を作っていた。休日にGenius Barに行くのであれば予約はした方がいいと思う。

ショップの担当者は、iPadで私のiPhoneとペアリングをして、診断プログラムを走らせた。バッテリーが弱っているという診断結果だったので、交換することにした。また、ガラスの端が破損してて、ヒビも入っていたから、これも交換することにした。

AppleCare+でバッテリー交換は無料

保証期間2年間のAppleCare+に加入していたので、バッテリー交換は無料で、ガラスの交換は3,672円(税込)で済んだ。

iPhone6のバッテリー交換は、アップルストアだと7,800円、画面の修理は12,800円になる。iPhone6AppleCare+は、月額550円(初回のみ150円)で24か月分払っていたから、もとは取れた。

もし、AppleCare+に加入していて、バッテリーに不安を感じているのであれば、24か月の期間中に交換した方がよいと思う。

その後、バッテリーの調子は良好

交換後、バッテリーの調子は良好である。バッテリー残量を気にしないくてよくなり、充電用のバッテリーを常に携帯する必要がなくなり、気も軽くなった。

そして、充電に時間がかかることに驚いた。逆に言えば、最近はあっという間に100%になってしまう程度しか充電ができなくなっていた、ということなのだろう。

ガラスを交換したら、画面がやけにきれいに見えた。会社のBYOD(Bring your own device)に登録している関係で、のぞき見防止フィルターを貼らなければならないのが残念ではある。

これで、あと2年ぐらいは使えそうだ。

 

 

新年の抱負:健康第一、中高年の成長

平凡ではあるけれど、自分にとっては重い新年の抱負:健康第一

一日早いけれど、新年の抱負について記録に残しておこうと思う。

新年の抱負をひとことでまとめると「健康第一」である。平凡だけど、自分にとっては身銭を切って学んでたどりついた重い抱負だ。

単に健康でありたいと願うだけならば簡単だけれど、一年を通じて健康管理をして、実際に健康を維持することは容易なことではない。

今年の1月に50歳になる。このブログにも何回か書いたけれど、40歳の前半は心身ともにトラブルが連続して、とにかく調子が悪かった。調子が悪いと、何かしたいことがあっても思うようにならないことを痛感した。

10年間の試行錯誤の末、健康管理のルーティーンがなんとか確立できた。そのおかげで、今年は一年間健康で過ごすことができた。まずは、このルーティーンを守り、ブラッシュアップして50歳の一年間を健康で過ごしたい。そして、それを一年ずつ継続して、50歳代を通して健康でいたいと思う。

仕事での挑戦:中高年も成長できることを示すこと

ここ数年の仕事での目標は、体調を回復して一人前の仕事をできるようになること、そして、いちどうつ病になってもしっかり働けるようになることを証明すること、が目標だった。

いちどうつ病で倒れると、完全に復活するすることはなかなか難しいことだから、必ずしも偏見とは言い切れないけれど、なんとなく「こいつは大丈夫なのか?」という周囲の視線を感じてきた。今年一年ふつうに働くことができ、「こいつは大丈夫」ということを一応証明できたと思う(それでもそのような視線は完全に払拭することはできないだろうけれど)。

次のステップとしては、この歳になっても成長できる、ということを証明したいと思っている。これまではマイナスをゼロにすることを目指してきたが、これからはゼロからプラスにしたい。

「生きる」という意味の人生も、職業人生という意味でも折り返し点を過ぎた。けれど、これからの人生も短いようでまだまだ長い。

日本全体が高齢化し、また、私の勤めている会社も高齢化している。高齢化した人がどれだけ働けるのか、新しい環境に適応し成長できるか、ということは、大きく言えば日本経済や福祉制度全体にとって、当然ながら私自身にとっても非常に重要な課題である。

老後の「生きがい探し」という意味ではなく、職業人として戦力を高めるための成長、という観点は、あまり真剣に考えられていないし、検討されていないように思う。もちろん、若い人が成長するということよりは難易度が高いのだろうけれど、いまからでも自分は成長できると思うし、そのことを証明したい、そして、自分と同世代の人たちの成長を助けていきたい。

職業人としての自分の成長を考える上でポイントは次の二つ。

最大限に活用するにせよ、アンラーニングするにせよ、いままでつちかってきた知識、経験とどのようにつきあうのか、が一つ目のポイント。

この歳から成長するには、まったく新しい領域に挑戦するのは得策とは思えない。やはり、知識、経験は活用したい。しかし、知識、経験にこだわるあまりに柔軟性は失いたくない。そのバランスが重要だ。

そして、若い人たちとどのような関係を持つか、持てるのか、が二つ目のポイント。

学習という観点からは、いかに若い人から新鮮な情報、考え方を学べるか、また、若い人に自分の知識、経験を教えることを自分の学びに結び付けられるのか、が重要だと思う。また、これから職業人として続けるためには、若い人からいかに一緒に働きたいと思ってもらえるように成長しなければならない。

ここしばらくは模索を続けることになると思う。

プライベートでの挑戦:語学、スポーツ、グローバリゼーションの世界史

 プライベートでの目標は、ここ数年取り組んできたことを地道に継続してきたいと思う。

語学(英語と中国語)は、話すこと、に重点を置こうと思っている。英語は発音を本格的に矯正したいし、中国語は初級の語彙と文法を学んだのでその応用ができるようになりたい。そして、中国語は中国語検定三級の合格と、中国語圏への旅行で実用的な中国語のコミュニケーションをすることを目標にしたい。

 ここ二年ぐらい、健康管理のための身体づくりという意味で、水泳、筋力トレーニング、たまにジョギングなど、身体は動かしてきた。それなりに体型も変わってきて、筋力も付いてきたように思う。これからは、スポーツを楽しむ比重も高めようと思う。ゴルフは中断していたけれど、ラウンドに出て、100を切ることを目標にしたい(これはあまり自信がないけれど)。春先に目白ロードレースに出る(5km)ので、二年前の記録よりは速いタイムを出したい。

そして、読書も旅行も含め、グローバリゼーションの世界史を追いかけてきた。これは継続していこうと思う。中国語の学習とからめて、グローバリゼーションのなかでの華僑華人の歴史に着目しようと思っている。

今年は時事的な本を主として読んだが、もう少し長い射程を持った古典的な本を中心に読もうと思う。当然、本の内容の難易度は高くなるから、読書メモもきちんと書かなければ。

翻訳の楽しみ(1):パズルとしての和文英訳

なぜ翻訳をするのか

最近は中国語の勉強を優先しているので開店休業状態になっているけれど、英語のブログ"Everyday Life in Uptown Tokyo"を書いている時期があった。

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たいていは英語で自分の言葉を書くようにしていたけれど、日本語を翻訳したり、日本独自の概念を英語で説明したりしたエントリーもある。英文和訳もおもしろいけれど、和文英訳の方がより楽しいような気もする。原文の日本語の意味を、自分の限られた英語表現に置き換えることがパズルのようで、そこが楽しいのかもしれない。

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やや大上段に振りかぶった理由としては、英文和訳に比べて和文英訳が少なく、文化的な側面で日本は大幅な輸入超過であり、そのような環境では少しでも和文英訳することも意味があると感じている。

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村上春樹の翻訳

英語のブロクで書いた記事を読み返してみると、村上春樹の文章を翻訳したものがいちばん多い。

私自身が好んでいることもあるし、海外で英語に翻訳されていない村上春樹情報に飢えている人がいることもある。特に、村上春樹がカタルニア国際賞を受賞したときの、311のことについて触れたスピーチを翻訳したときにはかなり反響があった。広く読まれることは目指したり、期待したりしている訳ではないけれど、読みましたというコメントが付くと単純にうれしい。

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 村上春樹の小説は、英語には確実に翻訳される。日本語で出版されてからしばらく時差があるから、英語で感想を書き、小説の中の一節を英訳することもある。

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あと、小説以外の本で、いつ翻訳されるかわからないもののさわりを英訳して紹介したエントリーもある。「小澤征爾さんと、音楽の話をする」は英訳されたが、「雑文集」は未英訳のようだ。

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歌詞の翻訳

今回、ブログのエントリーのタイトルを眺めていて、意外と日本のポップミュージックの歌詞を英訳していたことに気がついた。

日本のポップミュージックを紹介したいという気持ちがあり、しかし、youtubeのリンクを張るだけでは芸がないので、歌詞の英訳を付けたくなる。もちろん、英語の詩のルールも知らないし、韻を踏めるわけでもないので、英語として歌詞っぽくなっているかわからないけれど、なるべく原曲に乗せて歌えるぐらいの分量に収めるようにしている。

いい歌詞は想像力を広げさせる力があるから、つたない英語であっても、youtubeで音楽を聴きながら英訳詞を読めば、私と同じ景色を想像してくれるんじゃないかと思っている。

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日本文化のキーワードの解説

和文英訳ではないけれど、日本文化のキーワードであまり英語での紹介がなさそうなものを英語で解説したエントリーもある。例えば「ヘタウマ」「和製英語」「断捨離」「空気を読む」「クールビズ」。

インターネット上では、「ヘタウマ」を英語で解説した文章がほとんどないらしく、googleで"hetauma"を検索するとトップにくるし、アクセス数がなかり多いエントリーのひとつでもある。

こんな感じで、日本文化のキーワードを辞書的に紹介するブログを作れば、それなりにアクセスが増えそうな気もするけれど、そこまでの根気はなくて実現できない。

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残りの人生で読める本

来月で50歳になる

人生を10年区切りで考えることに意味があるかどうかよくわからないけれど、今度の誕生日には大きな感慨がある。

40歳になるまでは、夢中で生きていて人生を振り返って考える、などということはしたことがなかったから、20代、30代が終わるということにとりたてて感慨はなかった。

40代になり、さまざまな障害にぶつかり、それなりに挫折も経験した。このまま「夢中で生きる」だけではダメだと悟り、40代後半は自覚的に生活の仕方を変えてきた。新しい生活もようやく形ができてきて、50代になる準備が間に合ったと思う。

50代になると、人生の折り返し点も大きく超えていて、もう残り時間も限られている、ということを強く意識している。だから、ムダな時間は使いたくない。自分の好きなものに囲まれて、シンプルな生活をしたいと思っている。

残りの人生で読める本

例えば、残りの人生で読める本の数を考えてみる。

本格的に本を読めるのは20年ぐらいだろう。年間100冊読むとして、2000冊。もう、あと2000冊しか読めないのである。英語や中国語で読みたい本もあるけれど、日本語で読むより時間がかかるから、実際に読める本の数は少なくなる。

そう考えると、ムダな読書はしたくない、と思う。少なくとも、賞味期限が10年ぐらい、理想的には100年以上ある本を読みたい。賞味期限が1年も持たないようなバズワードがテーマの本を読む余裕はない。「カラマーゾフの兄弟」だって読んでないし、「純粋理性批判」もまだ読んでいない。

本の断捨離、生活の断捨離

毎年、不要な本をブックオフに送り、その売上を寄付するシステムに参加している。そのとき、手元に置いておく本はもう一度読むことがある、という基準で選抜している。

今年は、残りの人生で再読する価値のある本かどうか、真剣に考えて寄付する本を選んでいる。そのうち読もう、と思っていた積読本も多かったけれど、ああ、これは今この人生ではそこまでたどり着かない、と割り切って寄付することにした。例えば、源氏物語は賞味期限が非常に長い本だけれど、残りの人生のなかで熟読玩味する時間は割けないと思った。そうして厳選した本だけが並んでいる本棚を見ていると、なにか清々しく、心が軽くなったような気がする。

本だけではなく、自分の身の回りのものも断捨離している。PCだけが載っているシンプルな机に向かって、50代の自分を想像している。

大きいことはいいこと、ではない:原子力政策と地球温暖化対策に共通する大きすぎるリスク

古典的なソフトウェア開発手法:ウォーターフォール・モデルとその限界

古典的なソフトウェアの開発の進め方に、「ウォーターフォール」モデルというものがある。ウォーターフォールは、文字通り「滝」という意味である。ソフトウェア開発を「要件定義」「概要設計」「詳細設計」「プログラミング」「テスト」といった段階に区分し、滝が流れ落ちるように後戻りしないように進めていく方式である。

ソフトウェアでどのような機能を実現するか「要件定義」の段階でしっかり決めて、その段階のアウトプットに基いて「概要設計」をする。そうすることで、後工程になってから、「あ、そういえば、こういう機能が欲しい」ということになって、開発が混乱することを避けよう、という発想に基づいている。

実際には、あとになって変更したくなることは多いので、別途「変更管理」というプロセスを用意しておいて、どのような変更を認めるのか、意思決定と混乱なく変更を実現する管理を行うことになっている。

考え方としては整理されていて、これをきちんと実行できればちゃんとしたソフトウェアが完成しそうである。しかし、現実にはコストや納期が大幅に超過したり、最悪の場合は開発途中で放棄されていまったりなど、開発が失敗してしまうことも多々ある。また、「あとで変更したい」と思っても変更できず、ユーザーの満足度が低いソフトウェアができあがってしまうこともある。

ソフトウェアを小規模に分割することでリスクを軽減する:アジャイル開発

これに対して「アジャイル」と呼ばれる開発手法が提案され、最近では採用されることが増えている。アジャイルとは「機敏さ」といった意味である。

アジャイル開発で提唱されている要素は多岐にわたるので、網羅的に紹介するのは手に余るが、今日のエントリーに関連する部分のみを紹介すると、ソフトウェアによって実現する機能を細かい単位に分割して、その単位ごとに短期間小チームで実際に動くソフトウェアを作っていく、というやり方である。

ウォーターフォールでは時間軸に沿って作業を分割している。これに対して、アジャイルでは機能ごとにソフトウェアを分割している。ウォーターフォールでは、プロジェクトが完了しないとじっさいに動くソフトウェアはできないけれど、アジャイルでは部分部分で動くソフトウェアができあがっていく。

ウォーターフォールでは、最後にならないとソフトウェア開発の成否はわからないし、方向転換も難しい。だから、上流部分(「要件定義」などの段階)が重要だと強調される。一方、アジャイルは少しずつ作っていくから、途中で「機敏に」方向転換することが容易だし、開発が途中で打ち切られてもそこまでで作ったソフトウェアは少なくとも使い物になる。

大きいプロジェクト開発は、どんな手法を使っても難易度は高いし、失敗の確率は高く、リスクは大きい。ウォーターフォールは、緻密なプロジェクト管理によってそのリスクに対処しようとするけれど、本質的なリスクそのものは小さくなっていない。だから失敗することもあるし、失敗したときの痛手も大きい。

アジャイルのポイントは、プロジェクトを分割して小さくすることで、リスクを小さくしていることだろう。小さなプロジェクトは、どんなプロジェクト管理をしても、どうにかできることが多い。

大きな政策の大きすぎるリスク

 3.11以来、原子力政策のことを折に触れて考えている。結局、ウォーターフォール・モデルで開発が失敗してしまった巨大システムのように、あれほど大きなシステム、政策はその巨大さゆえにリスクが大きすぎると思う。

例えば、日本の原子力政策では、高速増殖炉プルトニウムを利用する核燃料サイクルを目指し、その実現を前提として組み立てられている。しかし、その鍵となる高速増殖炉の開発は遅々として進まず、その実現性に大きな疑問がある。高速増殖炉もんじゅ廃炉の方針は決まったけれど、全体としての核燃料サイクルの方向性は変わっていない。あまりにも巨大なシステムで、制度や利害関係が輻輳しすぎて方向転換ができなくなっている。これはまさに大きすぎる政策の巨大リクスを代表だと思う。

また、同様に、地球温暖化対策に関する政策も、同じように大きな政策の大きなリスクがあるのではないかと感じる。日本の原子力政策は、実現が不確かな高速増殖炉という技術を前提に大きなシステムを作り、隘路にはまっている。地球温暖化対策も、不確かな根拠で、あまりに大規模な政策を実現しようとしている。いったん進み始めると、あとで大きな後悔をしてもどうにも動きが取れないという事態に陥らないだろうか。

ソフトウェア開発のアナロジーでいけば、問題やシステムは細分化して、リスクを小さくしてから対処するのが安全な方法ではないかと思う。

 バークとハイエクによる主知主義批判

 3.11をきっかけにして、エドマンド・バークフリードリヒ・ハイエクといったヨーロッパ大陸系の主知主義に対抗する保守主義について読んでみた。これらに関わるエントリーへのリンクを以下に張った(ので、関心がある方はご一読を)。

 バークやハイエクは、人間の知性に基いてゼロ・ベースで社会を変革しようとする革命、フランス革命ロシア革命、そして、それによって生み出された体制を批判する。

彼らは直接的にはそのような言い方をしていないけれど、「革命」のような大きすぎるプロジェクトにはリスクがありすぎて、コントロールできないのだ、と主張しているように思う。

主知主義者は、理性によって理想的な社会を構想できるし、また、それを実現できるプロジェクトも管理できると考える。しかし、バークやハイエクは、あまりにも傲慢だと批判する。

確かに「革命」はまさに大きすぎるリスクを抱えた大きな政策の典型例だ。同じように、原子力政策を進めた人たちにも、地球温暖化対策を進める人たちにも傲慢な「主知主義」の香りが漂っている。

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