スノビッシュのつもりはなくてもスノビッシュに見えてしまう(のか?)

スノビッシュなやりとり?

大学時代からの友人の稲本と、Facebook上で次のようなやりとりをした。このやりとりは、そのつもりはなくともスノビッシュに見えてしまうもしれない、と気になった。

Inamoto Yoshinori まあ、東京の飲食方面を肯定的にとらえれば、擬似的に空間をつくってそこで酒を飲んだり(イングリッシュパブ風のものをつくるとか)、文脈を持ってきてストーリーを楽しんだり(うんちくを語るのはこれかな?)、別種の楽しみを見つけたりして遊んでる感じかな。うわすべりにすべりつづけて百五十年。

Takeshi KC Takagi 上滑りに滑らなきゃならないのは確かだねぇ。でも、まあ、涙を飲んで上滑る、というほど、悲壮でもないかな。

やや、解説をしたい。

稲本の「うわすべりにすべりつづけて百五十年。」という言葉は、夏目漱石の「現代日本の開化」という講演のなかの言葉を踏まえている。漱石ファンであれば、すぐ気がつくぐらい有名な言葉だと思う。

これを一言にして云えば現代日本の開化は皮相上滑(うわすべり)の開化であると云う事に帰着するのである。無論一から十まで何から何までとは言わない。複雑な問題に対してそう過激の言葉は慎つつしまなければ悪いが我々の開化の一部分、あるいは大部分はいくら己惚(うぬぼれ)てみても上滑(うわすべり)と評するより致し方がない。しかしそれが悪いからお止よしなさいと云うのではない。事実やむをえない、涙を呑のんで上滑りに滑って行かなければならないと云うのです。

 夏目漱石 現代日本の開化 ――明治四十四年八月和歌山において述――

このコメントに返事に「それは、漱石だね」と直接的に書くのは野暮な感じがすると思った。そこで、講演の内容を踏まえた返事を書くことにした。引用部分の最後を読んでもらうとわかるように、漱石は「涙を呑のんで上滑りに滑って行かなければならない」と言っており、それを踏まえて「でも、まあ、涙を飲んで上滑る、というほど、悲壮でもないかな。」と書いた。

この漱石の講演を知っている人はわかるし、そうでない人からみると何を言っているのかちょっとわからないやりとりになっている。

スノッブの定義

ネット上にある辞書(the Cambridge English Dictionary)を引いてみると、こんな定義が書いてあった。日本語でいうところの「スノッブ」というより、これは「権威主義者」「事大主義者」に近いように思う。

a person who respects and likes only people who are of a high social class, and/or a person who has extremely high standards who is not satisfied by the things that ordinary people like:

dictionary.cambridge.org

次は英語の俗語辞典(Urban Dictionary)で検索すると、日本語でいうスノッブの語感に近い定義がでてきた。要するに「俗物根性」というもの。

Anyone who thinks they are better than someone else based upon superficial factors.

www.urbandictionary.com

次は日本語の辞書(大辞林)で「スノッブ」を調べてみよう。意味的には上の定義とほぼ同じだろう。

教養のある人間のように振る舞おうとする俗物。えせ紳士。

www.weblio.jp

まとめると、スノッブとは、自分の実力ではなく、外部権威に形式的に依存して、自分をえらく見せようとする人のこと、ということなのだろう。

スノッブのつもりはなくてもスノッブに見えてしまう(のか?)

夏目漱石の言葉を借りてやりとりをする、ということはスノビッシュなのだろうか。

私自身、そしておそらくは稲本も、漱石が文豪で権威があるから読んでいるわけではなく、単純に好きだから読んでいる。そして、この「現代日本の開化」も、漱石の観察の鋭さに感心をし、漱石の「現代」だけではなく、私の「現代」にも通じている、と思っている。

夏目漱石」の「権威」に寄りかかった引用だったら、恥ずかしくてとてもできないけれど、その中身に共感しているからこそ引用できる。その気持にはスノビッシュなところはない(と考えたい)。

引用する方は単純に好きで共感しているから引用したとしても、世の中では漱石は「権威」ある「文豪」である。その文章だけ読めば、「権威」を借りて世の中を揶揄しているようで、いかにもスノビッシュに見える。

 自分がスノビッシュに見えてしまうのかどうかを気にしている時点でスノッブということなのかもしれないが、今回のようにスノビッシュなつもりがなくともスノビッシュに見えてしまうようなことが、たまにあると感じている。

まあ、だからなんだ、ということもないのだけれども。

ワインは欠陥商品

ロゼワインプロヴァンスに限る、クラフトビールポートランドに限る

ふだんロゼワインはあまり飲まないけれど、プロヴァンス地方を旅行したとき、乾燥した夏の夕暮れに戸外にテーブルと椅子を出したホテルの近くのレストランで飲んだロゼワインはほんとうにおいしかった。しかし、日本に帰国して同じ銘柄のロゼワインを飲んでもあれほどおいしいとは感じない。やはり、ロゼワインプロヴァンスに限る。

クラフトビールブーム(わが家の)が盛り上がり、一昨年の夏、その勢いでポートランドに旅行してクラフトビールを飲み歩いたことがあった。Hair of the Dog Brewingというクラフトビール醸造所が直営しているビアパブがあり、そこで飲んだビールがとてもおいしかった。つまみのセンスもすばらしかった。日本でもいろいろなクラフトビールを出すお店もあるけれど、結局、このお店ほど感動するようなクラフトビールに出会ったことはない。やはり、クラフトビールプロヴァンスに限る。 yagian.hatenablog.com

マニュアル車の運転とワインのうんちく

私は自動車を持っていないので、運転するのは年に数回レンタカーを借りるときである。日本やアメリカのレンタカーはいつもオートマだが、ヨーロッパではマニュアル車のことがある。排気量が小さく馬力が足りないマニュアル車を回転数を上げて運転するのは楽しい。

運転の楽しさはわかるけれど、考えてみればマニュアル車というものは、回転数の変化に応じてトルクが大きく変動するという内燃機関の欠点を、人間系で補うものなんだと思う。そういう意味では、マニュアル車はある種の欠陥商品だし、機械として考えればオートマ車や電気自動車に移行するのは自然なんだろう(まあ、公共交通機関が充実した都市で自動車を所有している人のかなりの部分はおもちゃとして所有しているのだろうけれど)。

ワインはどうしても当たりハズレがある。原材料も製造過程も輸送保存でも品質に影響を与える要因が多すぎて、品質が安定しない。だから、ハズレのワインがどうしてもある。消費者から見れば、開けて飲むまでは味がわからないという意味で、ワインは欠陥商品だと思う。

ワインについてのうんちくというのは、結局、ワインの欠陥商品性を逆手にとったマーケティングなんだと思う。飲むまで味がわからない品質の不安定さを、むしろ活用してしまうという意味で、マーケティングの観点からみればすばらしい成功だけど、いち消費者としては、それに付き合うのもなぁと思うようになってきた。

地産地消とワインとビール

お酒の味わいは複合的なものだ。お酒そのものの品質もあるし、気候の要素も大きいし、一緒に食べる食事との組み合わせも重要である。ワインやビールのような「なまもの」性が高いお酒は、ヨーロッパからはるばる運んでくるのも大変だろう。

結局、その土地でみながおいしいと思って飲んでいるお酒を飲む、プロヴァンスロゼワインポートランドクラフトビールのような、そういう地産地消的なお酒の飲み方がいちばんおいしいのではないかと思うようになってきた。

蒸留酒ブーム(わが家の)の到来

最近、わが家では蒸留酒ブームが到来しつつある。

ワインやビールとちがって、蒸留酒は品質が安定していて、当たりハズレがほとんどない。

 夏の飲み物ととして作り始めたモヒートだが、結局、通年飲んでいる。分量さえきちんと計れば、毎回ほぼ同じ味が再現できるのがよい。今では自分好みの味になるレシピもわかっている。

yagian.hatenablog.com

居酒屋で、グレープフルーツを絞る生グレープフルーツサワーがあるとたいてい注文している。これも家で簡単に作れるはずだから、こんど挑戦してみようと思っている。

江戸三十三観音巡礼ジョギング:文京区編

ハーフマラソンにやや懲りたので

1/14(日)のハイテクハーフマラソンに参加して、ぶじ完走はしたものの、そのあと足の痛みが長引き、足首にも違和感があった。もともと健康のためにはじめたはずのジョギングで身体を痛めるのは本末転倒と思い、しばらくジョギングを休んで身体を休めていた。

ハーフマラソンに参加する前は、これはフルマラソンへのステップぐらいに考えていたけれど、正直、ハーフマラソンにやや懲りた格好である。もし、またハーフマラソンやフルマラソンに参加するのであれば、準備もしっかりとして、ペースもがまんしてゆっくりと、身体を傷めないような走り方をしようと思っている。

yagian.hatenablog.com

江戸三十三観音巡礼ジョギング:文京区編

先週の土曜日、久しぶりにジョギングをした。

ちょっと気分を変えて、いつものコースではなく、今年に入って始めた江戸三十三観音巡礼をジョギングですることにした。わが家の最寄りの護国寺をスタートして、観音様が集まっている文京区を目指すことにした。調子が悪くなればいつでもバスで帰ってくることができる。

護国寺にお参りをした後、不忍通りを上富士前まで走り、右折して本郷通りに入る。地下鉄南北線本駒込駅の定泉寺に参拝。本郷通りから団子坂(江戸川乱歩「D坂の殺人事件」の団子坂、夏目漱石三四郎」の菊人形の舞台でもある)に向かう通りへ左に曲がり清林寺に参拝。

D坂の殺人事件 (創元推理文庫―現代日本推理小説叢書)
 
三四郎 (岩波文庫)

三四郎 (岩波文庫)

 

また本郷通りまでに戻り、左に曲がってしばらく行くと、桜が植えられている浄心寺に着く。本郷通りを戻り、向丘高校の脇の細い路地を左に曲がると大円寺がある。このお寺の墓地には斎藤緑雨の墓がある。日本近代文学のあけぼのの時代における彼のひねくれたユーモアに対して、自分のひねくれた感覚との共通点を感じ、ねじれた親近感を感じている。

白山通りに向けて坂を下ると円城寺がある。ここはには八百屋お七の墓がある。白山通りを後楽園の方向に進み、こんにゃく閻魔様のちょっと手前の角を右に曲がる。そのまま坂を上がると伝通院に着く。今日の巡礼はここで終わり。

そのまま春日通りを茗荷谷まで走り、スーパーで買物。ジョギングはここまでで、8.3kmだった。

タイムより目的のあるジョギングは楽しいかも

休みながらのんびり走ったので、久しぶりのジョギングでもあまり消耗しなかった。

レースでタイムを目標にして走るより、行き先に目的を持って走る方が楽しいかもしれないと思った。

江戸三十三観音で、文京区ほど巡礼先がかたまっているところはないけれど、また、巡礼ジョギングをしてみよう。

大切なのは失敗を恐れないこと:スーパーボウルLII(52)の感想

 スーパーボウル・ロス

日本時間で今週月曜日にスーパーボウルLII(52)があった。フィラデルフィア・イーグルスニューイングランド・ペイトリオッツに41対33で勝った。ペイトリオッツのQBトム・ブレイディは、最後のプレーでエンドゾーンにボールを投げ込み、最後の瞬間までどちらが勝つかわからない接戦のすばらしい試合だった。

つれあいがフィラデルフィアに縁があり、これまでもイーグルスの動向は見守っていた。しかし、よもやスーパーボウルに勝てるとはまったく思っていなかった。レギュラーシーズンを第一シードで勝ち抜き、プレーオフを勝ち進むにつれて徐々にもしかしたらと思うようになり、それが実現してしまった。

いまは、よろこび、というより、むしろ虚脱感がある。

イーグルスとニック・フォールズの道のり

最近、フィラデルフィアプロスポーツチームは、どれもぱっとした成績をあげられずにいる。イーグルスも2000年代初頭に強かった時期があったが、最近はプレーオフに進出することも難しい状態が続いていた。

前シーズン、新しいヘッドコーチのダグ・ペダーソンが就任し、同時に新人として獲得したQBカーソン・ウェンツを中心としたチームづくりに取り組み、今シーズンは開幕からウェンツがMVPレベルの活躍を見せ、地区首位を独走していた。

しかし、レギュラーシーズン16週のうち14週目の試合でウェンツが今シーズンの出場が不可能な重症を負ってしまう。プレーオフ出場はほぼ確実になっていたが、控えのQBニック・フォールズが出場することになった。

フォールズは、スターターのQBとして活躍したシーズンもあるが、ここ数年は控えのQBとしてチームを渡り歩いていた。結局、第一シードとしてプレーオフに出場することができたが、批評家からイーグルスは「負け犬(underdog)」扱いされていた。

たしかに、レギュラーシーズンの最終盤に出場することになったフォールズは落ち着きがなく、しきりとサイドラインの方へ視線を泳がせていた。ランプレーを中心に堅実な作戦を採用して、ロースコアの堅いゲーム運びをしていた。

しかし、徐々にフォールズも落ち着きを見せるようになり、プレーのバリエーションも増えていった。ウェンツの力も大きかったのだろうけれど、イーグルスは強力なオフェンスとディフェンスのラインを持っていて、QBが変わってガタガタと崩れるようなチームではなかった。

そして、チャンピオンシップゲームでは、フォールズはすばらしいプレーを見せてミネソタ・バイキングスに圧勝した。そして、スーパーボウルに進出し、ファンですら信じられないすばらしい戦いぶりでペイトリオッツに勝ち、フォールズはMVPを獲得した。

大切なのは失敗することを恐れないこと

挫折を経て、決して若いとは言えない年齢になっても成長する人を見ると心が熱くなってしまう。

フォールズのインタビューの一節を翻訳したいと思う。

「大切なのは失敗を恐れないことだと思う。現代社会、インスタグラムやツィッターでは、ハイライトが、いいことがあふれている。そんなものをい見たときが悪い日だったら、自分の人生はあんなにすばらしくない、自分は失敗している、と思うだろう。失敗は人生の一部だ。人格を作り上げ、成長するためには必須のものだ。失敗がなかったら、きみはきみじゃない。何千回も失敗し、誤りを犯さなかったら、私はここにはいない。ぼくらはみな弱さを抱えている人間なんだ。その弱さを分かち合い、隠さないでいることができる。

人が自分が弱いんだ、ということを話し、分かち合おうとしていると気がついたとき、ぼくは耳をすます。関わることができるように。ぼくは完璧じゃないし、スーパーマンでもない。NFLにいるかもしれないし、スーパーボウルに勝ったかもしれないけれど、みな、日常はあがいている。そのことこそが、自分の信仰、家族がよって立つものなんだ。自分の人生の苦闘を見つめるときこそ、人格を成長させるチャンスなんだと気がつくはずだ、ぼくはそう思ってる。」

“I think the big thing is don’t be afraid to fail,” Foles said. “In our society today, with Instagram and Twitter, it’s a highlight. It’s all the good things. When you look at it, you have a bad day, you think your life isn’t as good, you’re failing. Failure is a part of life. It’s a part of building character and growing. Without failure, who would you be? I wouldn’t be up here if I hadn’t fallen thousands of times, made mistakes. We all are human. We all have weaknesses. Just being able to share that and be transparent.

“I know when people speak and share they’re weaknesses, I listen. Because I can (relate). I’m not perfect. I’m not Superman. We might be in the NFL and we might have just won the Super Bowl, but we all have daily struggles. That’s where my faith comes in. That’s where my family comes in. I think when you look at a struggle in your life, just know that it’s an opportunity for your character to grow.”

usat.ly

彼のファンになってしまった。

「やさしさ」と「親切」

いまさら「やさしさ」について考えてみる

いまさらこんな「厨二病」的なテーマのエントリーを書くのもなぁ、と思いつつ、最近「やさしさ」ってなんだろうという疑問がふつふつと湧いてきたので、自分の考えを整理するためもあり、書いてみようと思う。

このエントリーでは「やさしさ」と「親切」という言葉を、独自の定義で使おうと思う。辞書を調べてみればちょっと違う定義が書かれていると思うが、このエントリー内では以下の意味で使う。

このエントリーでの「親切」と「やさしさ」の定義

「親切」とは「誰か対象のある行為、言動で、かつ、それが対象のために具体的に役立つもの」と定義する。ポイントは、行為者に、相手への共感とかおもいやりといった情動が必ずしも伴う必要がないこと、一方で、相手のために具体的に役立つ行為、言動であること、ということである。

「やさしさ」とは「誰か対象への共感に基づく情動」と定義する。ポイントは、情動であって必ずしも行為、言動を伴わないこと、また、相手のために具体的に役立ったり、伝えられたりするとは限らないことだ。

業務上の「親切」は「やさしさ」か?

最近、業務上他者を支援する役割を与えられている。仕事をする上で、できるだけ「親切」に、つまり、支援する相手に対して具体的に役立つように、心がけている。これは、「やさしさ」と関係あるのだろうか?

あくまでも職務として「親切」を実行しているので、基本的には仕事の外のことは切り離している。だから、支援している相手のため、というより、そのことを通じて会社への貢献、突き詰めれば会社の収益に貢献できるか、という視点を持って判断している。その意味では、共感という情動の「やさしさ」とはかなり隔たっている。

とはいえ、実際に相手のために役立つ具体的な行為、言動をするためには、相手の状況を洞察する必要があるし、そのためにはある程度情動面での共感も必要である。実際に「親切」を積み重ねて、相手から感謝の言葉をもらうような機会があれば、情も動く。

一方で、職務としての「親切」は、誰か情が動いた人に手厚くすることは望ましくない。自分の時間、労力を考えて、最大限に効果があるような「親切」の配分を考えなければいけないし、それが情に反することもある。

自己中心的な動機で、しかし、他者に貢献する「シャンパンタワー理論」

最近、自分のなかで「シャンパンタワー理論」というものを勝手に構築している。あくまでも自分を満足させるため、という動機でした行為が、結果として他者に貢献することがある、という理論である。

例えば、私はパンケーキが好きで、粉や焼き方に少々のこだわりがある。少なくとも、自分にとってはおいしいパンケーキが焼ける。休日の朝食、パンケーキが食べたくなると自分で焼いて食べる。もちろん、自分ひとりで食べるのではなく、家族の分のパンケーキも焼く。どうやら好評のようだ。

あくまでも自分がパンケーキが食べたいから、自分で焼いて食べる。副産物的に家族にもパンケーキを焼き、それで家族が喜ぶ。「シャンパンタワー理論」のイメージが分かっていただけただろうか。

家族がパンケーキをよろこんで食べてくれれば、自分として満足度は高まるけれど、別に好まなくてもそれはそれでよい。自分が満足できるパンケーキを食べれればそれでよいのだから。また、自分がおいしいものを食べたい、という欲望はけっこう強いもので、自分が満足できるパンケーキを作るための試行錯誤の結果、他に人にとってもあんがいおいしいパンケーキが焼けてしまうようになる。

人にやさしくしてもらうとき、相手が自分のことを配慮してくれていると思うと、ちょっと負担に感じてしまうことがある。「シャンパンタワー理論」の場合は、あくまでも自分のために自分が勝手にやったことで、結果として周囲に副産物的に恩恵が及ぶ。自分の感覚だと、ちょっとウェットな感じがあり粘つくような「やさしさ」より、スッキリ、さっぱりしている「シャンパンタワー理論」の方が、心地よいような気がする。

個人的には「やさしさ」よりは「親切」の方が好きかもしれない

自分自身の性格を省みるに、我ながら情に薄いなぁと思うことが多い。

そういう前提付きではあるけれど、個人的には「やさしさ」よりは「親切」の方が好きかもしれない。

学習の方法(独学、相互学習、通信教育、コーチング)

独学

最近取り組んでいる語学の習得、資格取得、エクササイズなど、学校に通って教育を受けるのではなく基本的には「独学」でやっている。

どのような教育を受けたとしても、最終的には自分が習得しなければならないし、その習得の瞬間は「独学」になると思う。

例えば、語学を習得するには、ボキャブラリーを増やさなければならない。どれだけ優れたボキャブラリーを増やすメソッドがあったとしても、結局のところ自らボキャブラリーを記憶するというステップは外せない。

日本の公教育における英語教育は批判されることが多い。確かに、40人クラスで語学の教育をするのは難しいと思うし、理想的な教育が実現している訳ではないと思う。もちろん、教室で英語の授業を受けているだけでは実践的な英語の運用能力は身につかない。しかし、今の自分の英語習得までの過程を思い起こすと、公教育での英語教育はそれなりに役立っていると思う。それだけでは英語をマスターできないけれど、マスターするために大いに助けになるし、また、教室以外での「独学」の時間もなければマスターはできない、ということなのだろう。

仕事をしながら何かを習得しようとするなら、自分の仕事と生活のなかで実現できるような学習方法を見出さなければならない。独学ならば自分だけのためのオーダーメイドの学習方法を組み立てることができる。現代は、独学用の教材も充実しているし、インターネットではさまざまツールやマテリアルが無償や廉価に提供されている。自分が若かった時代と比べると、独学環境は遥かに整っている。

とはいえ、独学だと、その分野の非常に基本的な点を理解せずに見落としてしまう危険性がある。また、初学者の時期は、自分にとって最適なオーダーメイドの「独学」カリキュラムを作り上げるのも難しいかもしれない。

相互学習

「独学」が中心であるけれど、完全に孤立して学習している訳ではない。「学校」という場に通うことはないけれど、いろいろな形態で他者と関わる機会は作っている。

このブログでも何回か紹介しているけれど、語学学習では”Lang-8”という相互学習のSNSにずいぶんお世話になっている。仕組みはシンプルで、学習したい外国語で書いた文章を掲載する。そして、その言葉のネイティブが添削をしてくれる。一方、自分も自分のネイティブランゲージ(日本語)の作文を添削する。

lang-8.com

他者の添削をするという「労力」を提供しているけれど、基本的に無料ということも大きな魅力だ。それだけではなく、外国語を学習するというモティベーション共有した人たちが集まっているので、打ち解けやすいいい雰囲気のコミュニティができあがっている。継続的に作文を書き続けるためのモティベーションを維持することはかんたんではないが、コミュニティの支えがあって続けられることもある。

個人レッスン

中国語でSkypeを使った個人レッスンを受けている。

複数の学習者によるレッスンは学習者同士の相互作用があるので一概に否定はできないけれど、やはり個人レッスンは密度が濃いし、カリキュラムをオーダーメイドで作れるメリットは非常に大きい。

誰しも個人レッスンを受けられればよいのだが、コストの問題もあるし、よい先生を個人レッスンに拘束することは難しいだろう。Skypeを使った語学の個人レッスンはコストの面ではすばらしいソリューションだと思う。

確かにSkypeの語学の個人レッスンは、体験的に言うと先生の質のばらつきは大きいよ印象がある。もし、何人かの先生のレッスンを受けて、最後に自分に合ったよい先生を見つけることができさえすれば、学校に通うよりは効率的で効果も大きいだろう。

通信教育

簿記3級の試験準備は完全に独学でやっていたけれど、いま進めている簿記2級の準備は通信教育を試している。オリジナルテキストとそれを解説する動画(DVDも送られてきたが、スマホでも見ることができる)、問題集、合格体験記など。まだはじめて1か月経っていないが、最初に勉強の方法、ペース、計画づくりについて細かい指導があるのが印象的だった。

いままで通信教育を試したことはなかったので、独学と比べてどのくらい効果があるのか確かめてみようと思っている。上にも書いたが、独学だとすごく基本的なことが抜けてしまうことがありそうなので、それを防ぐ効果はあるように思う。

また、簿記2級の試験を受けたら、通信教育の効果をブログで報告できると思う。

コーチン

ハーフマラソンは、セルフ・コーチングで、いちおう目標を達成できた。しかし、ゴルフはどうにも伸び悩んでいる。自分でじっくり練習する時間も必要だけれども、そろそろまたコーチングを受けてみようかなと思う。ただ、スクールに通うのではなく、個人レッスン系(ライザップではない)にしてみようかなと考えている。

コーチングについても、しばらくしたら報告しようと思う。

ハーフマラソンに参加した

第19回ハイテクハーフマラソンに参加した

最近、ちょっと長めの距離を走ってみたいという気持ちになり、第19回ハイテクハーフマラソンに参加した。ハーフマラソンははじめての体験で、これまで連続して走った距離としてはいちばん長い。

結果は、ネットタイムで1時間57分42秒で、2時間を切ることができたので満足している。ちなみにネットタイムというのは、参加者が多いマラソンやハーフマラソンではスタートの号砲が鳴ってからスタートラインに到達できるまでに時間がかかるので、実際にスタートラインからゴールラインまで到達するまでにかかった時間のことである。

sporoku.jp

スプリットタイムを見てみると、15kmまでは5分20秒/km前後のペースで安定しているが、それを過ぎてから落ちはじめ、19kmからは6分/kmを超えるペースになってしまっている。

connect.garmin.com

第一の目標としてはこのレースの制限時間2時間30分以内で完走すること、次の目標は2時間以内のタイムで走ることだった。

当初の計画は5分30秒/kmでいければ2時間を切れるということだった。平均すればほぼ計画通りのペースになっているが、最後のスタミナ切れは計画通りとは言えない。

このレースでは、河川敷を往路は下流に向けて走り、復路は上流に向けて戻ってくるコースだった。かなり風が強く、往路は追い風、復路は向かい風だった。往路は緩やかな下りで、かつ追い風でもあり、計画以上のペースで調子よく走ることができた。問題は折り返し点を過ぎて、緩やかな上り坂、かつ向かい風になってもむりにペースを維持したことだと思う。往路で気持ちよく走れた分、調子がよいと思って走ってしまったが、ここは自重すべきだった。

特に19km以降は6分台/kmになり、腿や足首が痛くなり、もう歩きたい気持ちでいっぱいだった。特に、土手を登るところは気持ちはジョギングだったが、傍から見ればよろよろと歩いているようにしか見えなかっただろう。このくらいになると歩いている人も多く見かけた。

もちろんラストスパートなどはできず、なんとかゴール。そこから家に帰り着くまでがかなり辛かった。

ハーフマラソンに向けた練習

去年の3月に目白ロードレースという5km少々のレースにエントリーしていた。このときは気合いを入れすぎ、直前の練習の負荷が高すぎたようで、レースの前日から腰痛になり欠場してしまった。今回はその反省を踏まえ、あまりハードに練習しない、休養は十分取るという方針で準備を進めた。

普段、有酸素運動は水泳をしているのだけれども、9月の末ごろ、やや涼しくなってきたところでジョギングを始めた。ジョギングの記録(ガーミンというメーカーのランニング用ウォッチ"ForeAthlete 220J"を使っていて、自動的にログが作成される)を見ると、25回練習できている。だいたい4日に1回ぐらいのペースだった。

基本的には、わが家の近所で6kmの周回ルートを設定して、そこを1周していた。11月に1回2周(12km)、12月に1回3周(18km)ほど長距離の練習した。6kmの周回では、概ね5分ジャスト~30秒/kmぐらいのペースで走っていた。特に目標ペースは決めていなかったけれど、自然に身体が動くままに任せて走るとこのくらいのペースが気持ち良い。

今思うと、もう少しゆっくりしたペースで長距離を走る練習をしてもよかったかもしれない。12月に18km走ったときは5分16秒/kmで行けたので、ハーフマラソンを甘く見たところがあった。18kmから先の3kmがきつかった。

レースの後に思うこと

水泳と比べるとジョギングは身体への負担が大きいと感じている。アスファルトの上を走るのは身体への衝撃が強い。あまり走りすぎるのも返って健康によくないかもしれない、と思う。 

もし、今後フルマラソンを目指すなら、練習の距離を伸ばす必要があるだろうし、単純にイーブンペースでジョギングをするのではなく、インターバルなど強度も強める必要がありそうだ。

しかし、今の生活を考えると練習時間を増やすのは少々厳しいし、より速く、より長く走ることが楽しいことなのか疑問もある。10kmを気持ちよく風を切って走るとか、ハーフマラソンをのんびり走る、ぐらいがよいかも、といまは少々弱気になっている。

とはいえ、最後の苦しい距離を歩かずにゴールできたことには満足感がある。自分ひとりで気軽にできるところも気に入っているし、記録を取りながら練習計画を考えて、レースのペースを決めたりすることも性に合っている。しかも、今回は結局その計画のペースを達成できた。

とりあえず一週間、身体を休めてみた。これからどうするかは、身体に聞いてみようと思う。