民主主義と国民国家

兄がこのページを見て、おとといの日記で取りあげた(id:yagian:20040425#p3)「世界潮流2004 イラク市民2700人の声」は自分が作った番組だというメールを送ってきた。身内びいきではないが、たしかに、あれはいい番組だったと思う。
出張の新幹線のなかで、この番組で司会をしていた池内恵氏が書いた『現代アラブの社会思想―終末論とイスラーム主義』(講談社現代新書)(amazon:4061495887])と井筒俊彦『イスラーム文化』(岩波文庫)([amazon:400331851X)を読み返しみたが、これからのイラクは容易ではないという印象がいよいよ深くなった。
米国にせよ、国連にせよ、いわゆる国際社会においても、おそらくイラクの人々にとっても、主権委譲後のイラクを民主主義国家にしていくことについては、一応、合意ができているのだろうが、はたして、それは可能なのだろうか。
民主主義を実現するためには、イラクの人々が、注に示した意味でのネーション*1を構成しなければならない。しかし、過去に、イラクの人々がみずからネーションを構成した経験はないし、いまのイラクの状況を見ていると、イラクの人々が主体的にネーションを作りあげようとしているように見えない。
そもそも、国民国家(ネーション・ステイト)という国家のあり方はヨーロッパから始まった特殊な形態であるし、制度とは別に、実質的にも国民国家といえるような国は、いわゆる先進国をのぞけば、少数だろう。また、イスラームに代えて国民意識ナショナリズム)に国家統合を軸にすることで世俗国家としての国民国家を実現したトルコをのぞけば、イスラームの国々のなかで、本格的にネーションを作り上げた国民はほとんどない。
もちろん、国民国家だけが望ましい国家のあり方ではないから、イラクの人々が望めば、そのような国家を形成してもよいだろう。しかし、今のところ、国民国家以外に、モデルになるような国家体制は見あたらない。
イラクの人々がネーションを構成して、民主主義国家を作り上げること、こればかりは、米国軍が撤退し、国連が選挙を管理したところで、イラクの人々が主体的に取り組まなければ実現しない。しかし、米国軍に対抗しようとしているのは、イラクナショナリズムではなく、イスラーム指導者や部族といった存在である。主権委譲の時期が近づくにつれて、ますます、イラク国内のさまざまな勢力の存在が目立っている。せめて、イラク国民が一体となって米国軍に対抗するという状況であれば見込みがあるけれど、いまのような状態では、とても、ネーションの統合に向かいそうにはない。
このままいけば、いくつもの勢力が争い、ほぼ内戦といえるような状態が続く非常に不安定な国となるか、再びサダム・フセインのような強力であるが高圧的な独裁者が国を統一するか、いずれかになりそうだ。どちらにしても、イラクの人々にとっても幸せではないし、国際社会にとっても望ましい結果ではない。サダム・フセインを排除しても、結局は、新たな混乱か、新たな独裁者か、その二つ以外の道が見えない。先行きは暗い袋小路のようだ。

*1:「ネーションとは特別の形態の政府をみずからの意志で選んだ人々の集まりであり、そのような形態の政府が、立法府をつうじて行政責任を負うべき対象となるべきだという共通の認識を持った人々の集まりがネーションということになる。」(衛藤瀋吉・渡辺昭夫・公文俊平・平野健一郎『国際関係論上』(東京大学出版会