葛藤とストーリー

昨日は、仕事で高崎線に乗って篭原駅まで行った。片道1時間30分ぐらいかかるから、往復で3時間電車に乗っていたことになる。台風が接近している影響で、雨が降り薄暗い日だった。電車のなかも寒かった。
電車に乗る前に本屋に寄って、保坂和志「もうひとつの季節」(中公文庫)(ISBN:4122040019)を買った。カバーに比べて本の本体が一回り小さかった。奥付を見ると、2002年4月15日発行の初版だったから、何度か出版社と書店の間を往復している間に、本の上下を削ってきれいにしたものなのだろう。挿絵のページを含めて本文が200ページで、文字の組み方にも余裕があったから、往復の電車のなかでちょうど読み終えることができた。
保坂和志の小説は、これで、「プレーンソング」(ISBN:4122036445)「草の上の朝食」(ISBN:4122037425)「季節の記憶」(ISBN:4122034973)「もうひとつの季節」(いずれも中公文庫)の四冊を読んだことになる。
「プレーンソング」の人物設定を引き継いだ続編が「草の上の朝食」、「季節の記憶」の続編が「もうひとつの季節」という関係にある。このなかでは、最初に読んだ「プレーンソング」が新鮮に感じられたが、別の小説から読み始めればそれを新鮮に感じたかもしれない。いちばんおもしろく読むことができたのが「季節の記憶」である。昨日電車のなかで読んだ続編の「もうひとつの季節」には、いまひとつ満足できなかった。
これらの四作に共通するのは、さまざまな個性をもった登場人物がでてくるけれども、それらの人物間に葛藤がおこらないことだ。保坂和志の小説が、日常生活の細部の描写の積み重ねで、ストーリーらしいストーリーがないのは、葛藤がないため、人間関係に変化がおこらないからだろう。もちろん、そのことは作者である保坂和志は確信犯として書いていると思われ、必ずしも彼の小説の欠点とも言えない。
しかし、「季節の記憶」のなかでは、ナッちゃんという女性とその娘であるつぼみちゃんという女の子が登場するが、このふたりは主人公の「僕」中野さんとその息子のクイちゃん(圭太)と相容れない部分があり、彼の小説ではじめて葛藤らしい葛藤がうまれる。「僕」が作家で、その息子のクイちゃんを幼稚園に通わせていないと聞きいたナッちゃんが「僕」に、息子を幼稚園へ入れない理由を聞きに来る場面である。

 それでそのうちにナッちゃんが、
「さっき美紗ちゃんから聞いたんですけど、圭太君は幼稚園にいってないんですってね」
 と言いはじめ、僕が相変わらず曖昧に「はあ、まあ−」とだけ答えると、
「何か理由があるんでしょう」
 とつづけて訊かれた。
「義務教育じゃないから……」
 僕ははじめて「はあ」とか「まあ」以外の言葉をしゃべった。
「そんな」ナッちゃんは答えをはぐらかそうとしてもわかってますよとでも言いたげに笑った。
「中野さんのことですから、きっと何かお考えをお持ちなんでしょう?主義とか教育観とか−」
「いや、ただなりゆきで−」
 僕が答えるとナッちゃんは突然高い声で笑って、
「中野さん、B型でいらっしゃいますか」
 と言った。
「血液型?
 A型です」
「え?Aですかァ。
 あたし直感が鋭いからまず間違わないんですけどね。BとOだとたまぁに間違うこともあるんですけど、Aの人で間違ったことなかったんですけど。
 中野さん、とっても自由人みたいにしてらっしゃるから、きのうはじめてお目にかかったときからBだと直感してたんですけど−。ええ。
 Aなんですか」
 僕は黙って頷いた。血液型とか星座の話を持ち出されると途端にアタマにくる。
「Aだなんて見られないでしょう?」
「そんなことないですよ」
「だって『A型でしょ?』って言われたときのAの人の態度と違いますよ。こうしてお話してても、なんかこう、とってもユニークな感じが伝わってきますし−。ええ。
 絶対にA型には見られないと思いますよ」

確かに、主人公が「血液型とか星座の話を持ち出されると途端にアタマにくる」というのはよくわかる。私もそう思う。T.ハリス「羊たちの沈黙」(新潮文庫)(ISBN:4102167021)のなかのレクター博士のせりふを思い出す。

「以前に、ある国勢調査員が私を量化しようしたことがある。私はその男の肝臓をソラマメと大きなアマローネと一緒に食べたよ。学校へ帰りなさい、スターリングお嬢さん」

ナッちゃんがレクター博士に会ったら、確実に食われている。
それはさておき、保坂和志の小説には、さまざまな個性を持つ人たちが登場するけれども、主人公は彼らのすべてを受け止める。彼らの行動や言動をおもしろいと思い、観察して、あれこれ考えをめぐらすが、怒るようなことはない。しかし、このナッちゃんだけは主人公をいらださせる。主人公とナッちゃんの間には葛藤がある。
「僕」は、あえてクイちゃんに文字を教えていない。なるべく文字を覚えるのが遅い方が、考える力を養えると考えている。しかし、クイちゃんは、ナッちゃんの娘であるつぼみちゃんから「クイちゃんが字が書け、ない」と言われ、落ち込んでしまい、文字を覚えたいと考えはじめる。クイちゃんがはたして文字を覚えるのか、クイちゃんとつぼみちゃんの関係、そして、それぞれの親の世界観の間に葛藤が生じて、この小説のなかでストーリーらしいものが生まれる。
しかし、「もうひとつの季節」になると、ナッちゃんは登場せず、つぼみちゃんもクイちゃんの遊び相手ではなくなりほとんど登場しない。また葛藤がない人間関係の世界に戻っている。保坂和志の小説の主人公は、世界を閉じているわけではないが、自分と葛藤を生じそうな人を慎重に避けている。それにもかかわらず「季節の記憶」では、ナッちゃんと偶然に出会ってしまう、というところがおもしろかった。せっかくおもしろい要素として登場してきたナッちゃんが「もうひとつの季節」では排除されてしまったことが、この小説に物足りなさを感じさせた原因の一つだった。
保坂和志の小説と比較するのが適切かどうかわからないけれど、この物足りなさは、庄野潤三の最近の小説に感じる物足りなさに似ているようにも思う。「静物」(「プールサイド小景・静物」(新潮文庫)(ISBN:4101139016)所収)では、さりげない日常の生活の描写によって、その日常の裏側にあるの緊張感を表現していた人が、「夕べの雲」(講談社学芸文庫)(ISBN:4061960156)以降は、一見おなじように日常生活を描写しながらも「静物」のような緊張感が失われてしまった。「夕べの雲」以降の庄野潤三の小説も、それはそれとして魅力があると思う。「静物」を読んでいなければ、すんなりと受け入れていたかもしれない。しかし、「静物」を読んでしまうと、どうしても物足りなさを感じてしまう。
こういう本に係わる日記を書いている時は、いもづる式にあの本のあの一節、この本のこの一節を引用しようというふうに連想が働き、机の上が開きかけた本だらけになってしまう。そんな風にして、「静物」と「夕べの雲」のことを書きながら、江藤淳「成熟と喪失」(講談社学術文庫)(ISBN:4061962434)と村上春樹「若い読者のための短編小説案内」(文藝春秋)(ISBN:4163533206)を引用しようと思った。
村上春樹は、「静物」と「夕べの雲」について、次のように書いている。

 母親と父親は、二人でその子どもたちのイノセンスを、無垢なるがままに守ろうとします。・・・またそれと同時に、そのイノセンスを媒介にして、夫婦という関係を保持しようとする。・・・
 しかしその序列は打ち立てられてからまだ日にちも浅く、確立もしてない。それをなんとか支えていかなくては、という激しい思いが主人公の中にあり、それが逆に彼を寡黙にさせている。・・・
 僕はそれがこの「静物」という作品の大きな枠組みだと思うのです。そしてそのイノセンスへの傾斜ぶりは、後年の作品「夕べの雲」(これは家族構成から見ても、明らかに「静物」の続編と考えられます)においてますます強くなってきます。しかし僕の好みから言えば、この「夕べの雲」では、あまりにも強固に作者の姿勢が確立されすぎています。そこからは「静物」に見られた張りつめた緊張感が失われていると、僕は感じます。つまり主人公は家父長として成功を収め、それに少なからぬ自信を抱くようになっているわけです。その丘の上の家は、まるで俗世の汚れを寄せつけぬ堅固な城のようにさえ見受けられます。

一方、江藤淳は「夕べの雲」については、次のように述べている。

 彼らはこの小説が、一見いかにも幸福感にあふれた大浦家の日常生活の描写に終始していることにいらだち・・・『夕べの雲』に描かれている大浦家の日常は、もちろん作者が細心に作り上げた虚構である。その虚構に一種抗しがたい現実感が含まれているのは、私小説的な模写の手法で的確に描写されているからではなく、むしろ表面にあらわれた虚構と主人公の背後にかすされた作者の心理的現実とのあいだに、きわめて緊密かつ重層的な照応関係が存在するにほかならない。読者は「幸福な」家庭生活の描写をたどりながら、実はその底にひそむ「恐怖」を読んでいる。

この江藤淳の批評が「静物」に向けられたものであれば、100%同意する。しかし、「夕べの雲」についていえば、村上春樹の指摘の方があたっていると思う。
もっとも、江藤淳の批評は「夕べの雲」が書かれた時点で書いたものであり、村上春樹や私は庄野潤三が「夕べの雲」以降、より「幸福感にあふれた大浦家の日常生活の描写に終始」する小説を書いていることを知っている、という違いがある。江藤淳の見込みが違ったというのは、フェアではないだろう。
ここまで書いているうちに、さっきまでの激しい雨と風が止んでいた。どうやら台風が通り過ぎたらしい。つれあいとセブン・イレブンまで買い物に行ってくることにした。
ビールとせんべいとスナック菓子を買って帰ってきた。台風が過ぎるのを待っていた人が多かったのか、お店は意外とにぎわっていた。台風の前に皆が買いだめしたのか、配達のトラックが遅れているのか、店の棚に隙間が多かった。
保坂和志の小説も、ひとつ間違えると、「俗世の汚れを寄せつけぬ堅固な城」に閉塞してしまう可能性もあると思う。いや、それが、間違えかどうかはよくわからないけれど。
ただ、村上春樹が一作ごとに何か新しい方法に挑戦しているのは、その閉塞を避けるためなのだろう。だから村上春樹の新作は、成功、不成功にかかわらず見逃すことができないと思う。
村上春樹アフターダーク」(講談社)(ISBN:4062125366)は、これまでの村上春樹の小説と違った試みをしているため、読者から見れば、なんと受け止めてよいかわからないところがあって、腑に落ちない気分にさせられる。しかし、それこそが、村上春樹庄野潤三と違い、まだ閉塞していないという証拠なのだろう。
せっかく「プールサイド小景・静物」を引っ張り出してきたから、久しぶりに読み返してみようかと思う。