小島信夫中毒

保坂和志小島信夫の往復書簡の本にした「小説修行」(朝日新聞社)(ISBN:4022576677)を読んだ後、小島信夫の小説を読みたくなって「暮坂」(講談社)(ISBN:406207270X)を読み、「うるわしき日々」(講談社文芸文庫)(ISBN:406198246X)を読み返している。
小島信夫の小説、特に後期の作品は、何がよいのか説明が難しいけれど、読み続けたくなる。目を離さずにいられない。
「暮坂」「うるわしき日々」に描かれる小島信夫の老年の生活は、かんたんな言葉で言えば悲惨ということになる。小島信夫の小説を読み続けたくなる理由の一部に、小島信夫がこの先どこまで悲惨になっていくのか、という興味もある。しかし、老人の悲惨さだけでは、読み続けることがしだいにつらくなってくるはずだ。
小島信夫は、悲惨なことを書きながらも、自分のことを突き放した微妙な距離感がある。
難しい表現をつかっているわけでもないのに、すらりと理解することが難しい不思議な文体である。小島信夫は現代の小説家だから、単純な私小説を書いているわけではなく、作者自身と小説のなかに登場する「小島信夫」の関係は複雑で、複雑な仕掛けがあるはずだ。しかし、どこまで意図的な仕掛けとして書いているのか、どこまでが意図せずに書いているのかよくわからない。想像だけれども、意図的に、意図せざるように書いている部分が大きいと思う。そういったすべてのことが、彼の小説の不思議なユーモアにつながっている。
主人公と作者が完全に重なり合う古典的な私小説は、いやらしい文章になっている。稲本(id:yinamono)がしばしば日記で書いている「オレオレ」といのは、文章で書かれている自分と書き手が完全に重なり合っているということなのだろう。
いま本が手元にないので、うろ覚えで書いてみるけれど、夏目漱石は、写生文は対象と距離があるから余裕が出てくる、という意味のことを書いていたと思う。「吾輩は猫である」(岩波文庫)(isbn:4003101014)は、典型的な写生文で書かれているだろう。苦沙味先生は、漱石自身の姿を描いていると思われるけれど、苦沙味先生と筆者には距離があり、確かに、余裕がある。独特なユーモアもこの距離が原因となっている。
写生文といっても、高浜虚子が書いた小説や子規の思い出は、客観性が厳しく突き詰められていて、ある意味の余裕はあるけれど、ユーモアというよりはクールさが前面に出ている。
小島信夫の文章は、作者と作中の人物の距離感がユーモアを生んでいるのは確かなのだが、漱石や虚子の文章とは、距離感の取り方が違っているように思える。けっして「オレオレ」式ではないのだけれども、作中の人物と筆者がもう少し密着しているような印象がある。いまは、これ以上具体的なことは書けない。
「うるわしき日々」の文庫版あとがき「著者から読者へ」を引用したい。

 「抱擁家族」の主人公は、三輪俊介といった。俊介が生きのびて現在と至るとするならば、「暮坂」の主人公のようになってもいたしかたないなあ、と人々が思うかもしれない。現在、こういう新聞小説の注文を受けている、小島信夫という作家は、もう八十の坂をこえつつある。まぎれもない、郎作家である。彼はじっさい俊介だと間違ってもおかしくないほど、本質的に似ているといわれても反対する理由はない。
 連載が始まろうとするのに、私はこれから書く小説のことより、息子をどこの病院に入れてくれないか、と探していてその方に気をとられていた。新聞社の方でも何とかしてくれそうなので、そのことをアテにもしていたが、私が思うようにはいかなかった。そのうち、連載の最初の何回分かを渡す日が近づいて来た。
 こんなことは、私には珍しいことではないであろう。私はどんなふうにこれから小説を書き進めるかも皆目わかっていない状態でペンをとるというのだから、小説は私が生きている時間とあんまりあんまり違わない時間のところで書くことになってしまう。ほぼ現在進行形というぐあいにならざるを得ない。好意的にいえば、ドキュメンタリイだ。

「うるわしき日々」は、「ドキュメンタリイ」だという。おそらく、小説に書かれている事実の部分は、じっさいに起こったことだと思う。しかし、単純なドキュメンタリイの文体とはずいぶんちがう。この小説がドキュメンタリイだとすれば、ふつうのドキュメンタリーも、「事実」を「ドキュメンタリー」という一つの枠組みに押し込んでいることを照らし出しているともいえるだろう。