ハニカミ、あいのり

10月になり、私の所属するチームに、新たに社員が一人異動して来て、さらに、新たに一人派遣社員を雇うことになったので、二人の歓迎会が開かれた。
その席で、私は「「恋するハニカミ!」は好きだけれども「あいのり」は恥ずかしさで耐えられない」と言ったところ、新しい派遣社員の人(以下、Kさんと呼ぶ)は、「「あいのり」は大丈夫だけれども、「ハニカミ」を見ているとは恥ずかしくなる」と言った。人によって感じ方が違うのをおもしろく思った。その後もこの違いが気になっていた。
歓迎会の数日後、Kさんにこの話題を蒸し返して、「僕が「あいのり」を見ているときに感じる恥ずかしさは、「しゃべり場」を見ているときの恥ずかしさに似ている」と言ったところ、Kさんは「「しゃべり場」はあまり恥ずかしくない」と答えた。そして、「「あいのり」や「しゃべり場」は、出演者自身は恥ずかしがっていないけれど、「ハニカミ」では出演者自身も恥ずかしがっているのが違う」と言った。鋭い指摘だと思った。
「恥ずかしさ」は、非常に興味深い感情だと思う。自意識がなければ「恥ずかしさ」は感じないから、小さな子供は恥ずかしがらない。ふつうの動物には喜怒哀楽はあっても、恥ずかしさという感情はないように見える*1
恥ずかしさがあるレベルを超えるといたたまれなくなるけれども、軽い恥ずかしさは甘い快楽でもある。「はにかみ」という言葉は、この軽い恥ずかしさを意味しているから、「ハニカミ」という番組名は、この番組が「恥ずかしさ」という感情がテーマとなっていることを示しているのだろう。
自分が恥ずかしいことをした場合に恥ずかしさを感じるだけではなく、他人が恥ずかしいことをしている場面を見た時にも、なぜか、自分も恥ずかしさを感じることがある。これは、いったいどういうメカニズムなのか不思議である。「ハニカミ」と「あいのり」のどちらに恥ずかしさを感じるのか、という問題は、他人のどのような姿に自分が恥ずかしさを感じるのか、という問題であり、このことを突き詰めれば、他人の姿に恥ずかしさを感じるメカニズムについて理解できるようになるかもしれない。
私が人の行動に恥ずかしさを感じるときのことを振り返って考えてみると、どうやら、当人には恥ずかしいという自覚がなく、私から見ると非常に恥ずかしい行動をしているときのようだ。たとえば、大根な演技を見ていると気恥ずかしく思う。しかし、自分が大根役者だと思って大根な演技をしているのはあまり恥ずかしくない。自分が大根だと思わず、妙に熱演をしている大根役者をみると、これは、もう、耐えられない。
「あいのり」や「しゃべり場」を見ていると、出演者が後になってビデオを見たらさぞかし恥ずかしがるだろうと想像してしまい、いたたまれなくなる*2。私にとっては、出演者自身が恥ずかしいと思っていないことに、こちらが恥ずかしくなるポイントがある。
一方、Kさんは、私とは恥ずかしく思うポイントが違っている。ほかの人自身が恥ずかしく思うことをしているところを見ると、こちらも恥ずかしく感じる、ということのようだ。
私の場合は恥ずかしさ基準は常に私自身にあり、Kさんの場合は当人が恥ずかしがっていることが基準となっているのだろう。

*1:もっとも、野良猫を観察していると、恥ずかしがったり、照れ隠しをしているように見える瞬間があるから、彼らには自意識があるのかもしれない。

*2:正確に言えば、実際に出演者自身が恥ずかしがるかどうかはわからない。もし、自分が出演して同じようなことをしていたとして、それを後から見たとするとさぞや恥ずかしく思うことは断言できる。