芥川龍之介のうまさ

今昔物語集」を訳していると、芥川龍之介のうまさをしみじみ感じる。
そこで、芥川龍之介「羅生門」と、「今昔物語集」の「羅城門登上層見死人盗人語」を比べて、芥川龍之介がどのような部分を加えているのか詳しく見てみようと思う。
冒頭の部分、「今昔物語集」では、盗みを働こうと都にやってきた男は、夜になって人通りが絶えるのを待つために羅城門にたたずんでいる。一方、「羅生門」では、男は雨に降り込められて、所在なく雨宿りをしている。
今昔物語集」では、男の心理についてはほとんど書かれていない。男が盗人になることに罪の意識を感じているかどうか、逡巡があるかどうか、などということは書かれていない。しかし、「羅生門」では、男の心理のゆれが主題になっている。「羅生門」の冒頭では、男はまだ盗人となることを決心していない。「今昔物語集」では、男は盗みをするための合理的な行動の一環として羅城門の下に立っている。「羅生門」では、男の逡巡をより明確に表現するために、男は雨に降られてやむをえず羅生門にやってきたことになっている。巧みな設定だと思う。
今昔物語集」では、羅城門のまわりには、人通りがあるように書かれている。男は、通りを歩く人の人目を避けるために羅城門に隠れているのだから、周囲に人通りがなければつじつまが合わない。「羅生門」では、男以外には人気がないことになっている。さらに、羅生門には、死体が棄てられ、鴉が舞い、建物は崩れかかっていることが語られる。その方が、薄暗い羅生門の二階で、若い女の死体と老婆に遭遇する場面に向けてサスペンスが高まるのはいうまでもない。
さらに、「羅生門」では、男の逡巡した気持ちを表現するために、「面皰」「重たくうすぐらい雲」「大きな嚔」とさまざまな小道具を駆使している。このあたりを「うまい」と感じるか、「小細工」と感じるかで、芥川への好みが分かれるのかもしれない。
羅城門の二階に上がるきっかけは、「今昔物語集」は、人がやってきたので、それに見られないように二階によじ登ることになっている。しかし、「羅生門」では、人気がないという設定になっているため、人が来ることを二階に上るきっかけにするわけにはいかない。そこで、羅生門で夜を過ごすために二階にあがることになっている。よじ登るというのでは不自然なので、羅生門には階段が付けられている。
二階に上がった後、男は、老婆が明かりをともして女の髪を抜いているのを見つける。「今昔物語集」では、その不思議な場面を見て、怨霊なのか、人間なのかと思いまどう。一方、「羅生門」では、なぜか、男の「悪を憎む心」が無性に燃え上がるのである。それまで、男は、漠然とした不安を抱えていたのである。それが、漠然とした形のないものへの感情が不安という形をとっていたのだが、感情の対象として髪を抜く老婆という形があるものがあらわれた結果、より指向性の高い感情である憎しみに取って代わられた、ということなのだろう。
この部分は、やや理に走りすぎているような気もする。漠然とした不安を抱いていたところに、感情を向ける対象があらわれて、感情にくっきりとした輪郭が与えられるということはありそうな話である。しかし、それが「悪を憎む心」に昇華されるのだろうか。それに比べると、「今昔物語集」は、怨霊か人かとまどうという気持ちは、ごく自然な感情だと思う。
そして、「今昔物語集」と「羅生門」とでもっとも異なる部分は、髪の毛を抜くことに対する老婆のいいわけである。「今昔物語集」では、かつての主人が死に、葬儀の世話をしてくれる人がいなかったため、羅城門に持ってきたという(老婆だけで、階段のない羅城門の二階にどうやって死体を運び上げたのかが疑問であるが)。そして、その主人の髪を抜いて鬘にしようとしていると語る。これは、単に自分の行動を語っているだけで、かつての主人の死体の髪を抜くという行為の正当化をしているわけではない。一方、「羅生門」の老婆は、自分の行為を正当化するために、髪を抜いている女がいかに悪人だったかをくど説明する。このあたりは、平安時代の身分の賤しい老婆には思えず、近代人のようだ。
単純に悪行を行い、理に走ったいいわけをせず、ただ単に男に哀願する「今昔物語集」の老婆の方が、リアルで、ある意味さわやかな感じすらする。「羅生門」の老婆の言葉は、合理的であるが、くどく、うんざりさせられる。もちろん、聞き手、すなわち、男がうんざりするということも、芥川の計算のうちだったのだろう。男は、老婆の得たいのしれない行為を見て、憎しみを募らせていた。しかし、老婆の合理的な説明を聞くと、すっかり興奮が冷め、冷静になる。そして、盗人となることを決断する。
今昔物語集」では、男や老婆の心理の説明はほとんどない。男は、一貫して盗人として非情な行動に徹している。老婆が近代人だとすれば、なにか一言いいわけをしたくなるところであるが、そのようなことはしない。いずれにせよ、男も老婆もきわめてシンプルに行動し、その背後に複雑な心理があるように見えない。
羅生門」では、男の心理の変化に焦点が当てられている。漠然とした不安から、感情の対象を得て悪への憎しみをかき立てられ、その対象が陳腐であることがわかると不安や憎しみがなくなる。素材は「今昔物語集」に取りながら、登場人物の行動、心理は合理的で近代人になっており、構成には無駄がない。
羅生門」は、じつに巧みである。しかし、どこか、うますぎるけれど、ものたりないような気分にもなる。それは、おそらく、分析的に読んでいくと、芥川のたくらみがわかってしまうからだと思う。手品にはタネがあることはわかっているけれど、そのタネをわからずに見るのがおもしろいのである。どんなにうまいマジシャンであっても、タネがわかってしまえば、手品を楽しめないということと似ているかもしれない。
芥川龍之介に感じる、うまいけれどもものたりない、というこの感覚については、もうすこし掘り下げて考えてみようと思う。