瘋癲老人日記

谷崎潤一郎「瘋癲老人日記」(「鍵・瘋癲老人日記」新潮文庫所収)(ISBN:410100515X)を読んだ。
主人公は、七十七歳の老人の卯木督助である。小説は、彼が書いた日記という形態をとっている。この小説は、督助の嫁、颯子への性的な妄想、執着に着目して語られることが多いようだ。たしかに、性的な妄想も読みどころの一つではあるけれど、それだけに注目するのはもったいないと思う。
谷崎潤一郎の小説は、永井荷風の小説と同じように、同時代の風俗、世相が細かく書き込まれており、それを読むだけでも楽しい。この小説は、昭和三十五年頃の東京を舞台として書かれており、その頃の富裕層をの生活が実によくわかる。さらに、この新潮文庫の版では、風俗小説として読まれることを意識した詳細な註が付いているのがよい。
颯子のファッションについて書かれている部分を引用してみよう。

・・・彼女ハリュウエッフェル塔ノ模様ノ附イタポロシャツヲ着テ、膝ノトコロマデノトレアドルパンツヲ穿イテイルノガ、素晴ラシクスッキリト意気ニ見エタ。

・・・

・・・髪ヲパーマネントニシ、耳二イヤリングヲ下ゲ、唇ヲコーラル・ピンクダノパール・ピンクダノコーヒー・ブラウンダノ二塗リ、眉二黛、瞼二アイ・シャドウヲ着ケ、フォールス・アイラッシュデ附ケ睫ヲ着ケ、ソレデモ足リナイデスカラーデ睫ヲ長ク見セヨウトスル。昼間ハダーク・ブラウンノ鉛筆デ、夜ハ墨ニアイ・シャドウヲ交ゼテ眼張リヲスル。爪ノ化粧モコノ伝デ、詳細ニ書イタラソノ煩ニ堪エナイ。

颯子のファッションに関する描写は、これにとどまらないけれども、いちいち引用していたら、まさに「煩ニ堪エナイ」のでこのぐらいにしておく。
註によると、トレアドルパンツとは、いわゆるサブリナパンツのことで、昭和二十九年に「麗しのサブリナ」が公開され、女性がスカートではなくパンツを穿くことが一般的になり、同じ頃にポロシャツも流行したのだという。確かに、活動的で足がきれいな颯子が、ポロシャツにサブリナパンツを穿けば、「素晴ラシクスッキリト意気ニ見」えそうだ。
私も、つれあいのファッションやメイクには、それなりの関心を持って観察しているけれど、これだけ具体的にかけない。晩年までずっと同時代のファッションに関心を抱き続けた谷崎潤一郎には感心してしまう。
風俗について書かれているのは、ファッションだけではなく、芝居、映画、レストラン、ペットその他、枚挙にいとがまない。
督助は、颯子に、ヒルマンという自動車を買い与えている。いすゞがイギリスの会社から技術導入をして、日本で現地生産、販売していた自動車である。
このヒルマンという自動車には縁がある。昭和三十年代の後半、結婚前の父親は、母親をヒルマンに乗せてドライブデートをしていたという。もちろん、父親がヒルマンを自家用車を持っていたわけではない。父親の義理の兄、私の伯父がいすゞ病院に勤めていて、いすゞが販売していたヒルマンを持っており、それを父親がデートのたびに借り出していたという。
註によれば、「昭和三十五、六年頃からレジャー・ブームが始まり、若者たちは競ってドライブやサーフィン、スキーなどに熱中し」「この車(ヒルマン)は女性好みの車と言われていた」という。上流階級の若奥さんが乗るセカンドカーとして似合うような、ちょっとしゃれた自動車ということだろう。
父親はどちらかといえば庶民の出で、母親はどちらかといえばお嬢さん育ちである。父親は、お嬢さんだった母親の気をひこうとして、ちょっと背伸びをしたデートをしていたということのようだ。なんだかほほえましい。
最近では、老人の性の問題も語られるようになってきたが、督助の颯子に対する妄想を読んでいると、結局、年をとっても人間の中身はたいして代わり映えしない、ということなのだと思った。もちろん妄想の形は人それぞれだろうけれど、誰しも何らかの性的な妄想を抱いている。そして、その妄想は年齢を重ねても薄れることはなく、死ぬまで妄想を抱き続ける。身体が衰えるだけ、頭の中の妄想はかえって強くなる。
亡くなった父方の祖父は、脳卒中になって亡くなるまでの数年は寝たきりで、言葉を話すことはできなかったけれど、明らかにお気に入りの看護婦さんとそうではない看護婦さんがいた。言葉を話すことができなくなっても、最後まで何らかの性的な妄想は抱いていたのだろうと思う。
「瘋癲老人日記」では、性的な妄想を中心に書いているけれど、性的な妄想に限らず、さまざまな煩悩、執着も、年をとってもなくなることはないのだろう。