蓮の花

久しぶりに今昔物語集の現代語訳をしてみた。
「讃岐の国の多度郡の五位が法話を聞いて直ちに出家した話」である。これまでは、なるべく原文の直訳となるように翻訳していたが、この話は直訳するとあまりにも読みづらくなってしまうため、会話にはかぎ括弧を使い、多少意訳をした部分もある。直訳でもなく、わかりやすい現代語でもなく、中途半端な翻訳になってしまった。
今昔物語集は、おそらく、法話のためのネタ本として編集されたものだ。その意味では、仏法篇こそが、今昔物語集中心である。しかし、肝心の仏法篇は、焼き直しの話が多く、現代よく読まれているのは、当時のさまざまな事件世相を取り扱った世俗篇である。しかし、「讃岐の国の多度郡の五位が法話を聞いて直ちに出家した話」話は、本朝仏法篇の中にあって、例外的に魅力的である。世俗篇に納められた話のように、主人公の行動は実に印象的である。それだけではなく、仏教説話としてもよくできている。翻訳の善し悪しを超えて、この話の魅力は伝わると思う。
仏教の諦念というと、消極的な印象があるけれども、この話の主人公は立派な諦念を持ちつつ、実に積極的に行動している。彼の行動は、仏教の力強い側面をよく示していると思う。
阿弥陀仏を求めて愚直に西に向かって進んだた主人公は、木の股の上に西に向いて座ったまま死ぬ。そして、口から蓮の花が一輪生える。死体は、おそらく、鳥や獣に食べられてしまうだろう。
これ以上の死に様というものはないと思う。実際に「死ぬ」というだけではなく、何かを終えるとき、例えば、退職するとき、組織から異動するとき、何かのプロジェクトが終わるとき、こんな「死に様」でありたいと思う。
世俗的には成功であっても失敗であってもいい。蓮の花のように美しいものを一つだけでも残し、自分の身体が誰かの糧になればいい。
しかし、実際には、我執があって人とのために生きることはできそうにもなく、こんな「死に様」はできそうにないけれど、すこしでもそんな風になりたいと思う。