懐古的読書

最近、若い頃に読んだ本を読み返す懐古的読書をしている。
レイモンド・チャンドラー「長いお別れ」(ハヤカワ・ミステリ文庫)、ウィリアム・ギブスンニューロマンサー」(ハヤカワ文庫)を読んだ。
フィリップ・マーロウというキャラクターは、複雑ですんなり理解できないところがある。学生のころは、チャンドラーよりハメットの小説の方が好きだった。もしかしたら、マーロウよりはハメットの小説の主人公の方が理解しやすかったからかもしれない。
「長いお別れ」が、マーロウのテリー・レノックスへの思いをテーマとした物語である。マーロウの行動は、テリーはあのような殺人をしないと、そして、そのことを明らかにしたいという信念で貫かれていることは理解できる。テリーは、社会的に優れた人物には描かれていないし、マーロウのテリーへの思いは、テリーのマーロウへの思いと釣り合っていない。おそらく、チャンドラーは、マーロウ自身の思いこそが、そのほかのすべてのことよりも重要だと言いたいのだろう。そのことはわからないでもない。
しかし、どうしても気になるのは、マーロウの女性への態度である。特に解せなかったのはリンダ・ローリングへの態度である。マーロウはリンダに対して愛情を感じているように思える。そして、マーロウからリンダに対してアプローチをしている。リンダは自分の夫との離婚が決まった後、マーロウのアプローチに応えて、彼の家にやってくる。マーロウは、自分からアプローチをしながらも、リンダがそれに応えようとすると急に素っ気なくなる。

「……あなたは私をはねつけたたった一人の男になりたいの。それがどれほど自慢できることだと思ってるの。私がこれだけいってるのがわからないの。結婚してくださいといったのよ」
「それ以上のことをしてくれたからね」
 彼女は泣き出した。「ばか!ばか!」頬に涙が流れた。涙が私の頬にもつたわってきた。
「半年か、それとも一年か二年かつづいたとして、あなたにどんな損があるの。オフィスの埃だらけのデスクやいつも塵がたまっている窓のブラインドやひとりぼっちのさびしい暮らしがそんなにありがたいの」
「まだシャンパンがほしいのか」
「いただくわ」
 私は彼女をひきよせた。彼女は私の肩に顔をうずめて泣いた。私を愛しているわけではなかった。私たちはどっちも、そのことをよく知っていた。彼女は私のために泣いているのではなかった。涙を流してみたいだけなのだった。

マーロウがリンダのプロポーズを拒むのは、金持ちの女と結婚して、自分の独立が失われるのを恐れた、ということはわからなくもない。
そう考えると、マーロウのテリーへの思い入れの理由も理解できる。リンダの思いを受け入れれば、自分のこだわりが脅かされる。だから拒絶する。自分が一方的にリンダを思っているときは安全だが、リンダの方から思いをかけられると危険になる。これに比べると、社会的には何者でもないテリーは安全である。テリーがマーロウにいかに面倒をかけたとしても、マーロウのこだわりが脅かされることはない。むしろそれは強化される。「面倒こそ稼業」"Trouble is my bussiness."だからだ。
私の目から見れば、マーロウのこだわりが、リンダを拒絶して傷つけるだけの価値があるとは思えない。マーロウは自閉的な人物だと思うが、しかし、人が何にこだわるかはそれぞれの価値観である。
いちばん気になるのは、引用部分の最後の部分「私を愛しているわけではなかった。私たちはどっちも、そのことをよく知っていた。」というところだ。リンダを拒絶したのはマーロウである。そして、マーロウがリンダを傷つけた。しかし、マーロウはその責任をリンダに転嫁している。じっさいには、マーロウがリンダにアプローチをして、リンダがそれに応えようとしたときに、自分のこだわりが脅かされたマーロウが、リンダを裏切って彼女を拒んだのである。それを、マーロウは、リンダは気まぐれでマーロウと結婚しようと言っているだけで、彼のことを愛しているわけではない、それが、マーロウが拒絶した理由であり、リンダの自業自得だというのだ。
自分のこだわりをまもるためには、何でもするマーロウ。それが時には美しい行動にもなり、時には姑息な自己欺瞞にもなる。
チャンドラーは、マーロウを単なる信念の男として描いていない。その複雑さが小説の深みとなっているのかも知れない。
ニューロマンサー」は、今読んでも最高だった。古さもまったく感じない。
あらためて読み返してみると、映画「マトリックス」の材料がここまで「ニューロマンサー」に含まれているとは思わなかった。サイバースペースを意味するマトリックスという言葉、主人公のケイスとモリイの関係、AI(人工知能)の存在と形而上学的な対話、サイバースペースのなかだけの存在になっているディキシーフラットライン、そして、ザイオンという言葉すら登場する。「マトリックス」は、「ニューロマンサー」の映画化といってもよい。
マトリックス」のオープニング、サイバースペースを象徴する表現として緑色に輝く文字が上から下へ流れていくシーンがある。これも、「ニューロマンサー」のなかにアイデアが示されている。ケイスが、AIが作る電脳空間にとらえられているシーンである。

 視野を幻の絵文字が這い回る。半透明の記号が何列にもなって、壕の壁という無色の背景幕に居並ぶ。両手の甲に眼をやると、皮膚の下を、かすかなネオン微粒子が這い回り、不可知の暗号に従っている。右手を挙げて、試しに振ってみた。かすかに薄れていくようなストロボ残像が跡を引く。

もしかしたら、最初の読んだときには、この描写がどのような場面を表現しているのかよく理解できなかったのかもしれない。しかし、「マトリックス」を見た後では、この描写が表現している情景は想像できる。
ニューロマンサー」の原作が書かれたのが1984年、ハヤカワ文庫の翻訳の初版が1986年で、私が大学に入学した翌年である。まさに同時代の小説として読んでいた。「マトリックス」の第一作が1999年の制作。SF小説の最先端がハリウッド映画化されるまでにはそれぐらいのタイムラグが必要ということなのだろう。「スターウォーズ」でも、SFを読んでいる人にとっては、お姫様がでてくるスペースオペラというのは時代遅れと思ったに違いない。「未知との遭遇」「ET」も、いまさらファーストコンタクトがテーマというのも古めかしい感じがしただろう。しかし、映画がヒットするには、それぐらいのギャップがあってちょうどよいのかも知れない。
結局、SFというジャンルが新しいものを提示できたのは、「ニューロマンサー」が切り開いたサイバーパンクでおしまいになってしまった。その後のSFは、過去の小説の世界観、アイデアを使ったジャンル小説だけになってしまう。そして、ウィリアム・ギブスン自身も、自分が作ったサイバーパンクというジャンルから抜け出ることができなくなってしまった。いってみれば「ニューロマンサー」はSFというジャンルを終わらせてしまった小説ということなのだろう。
ニューロマンサー」の思い出。
http://www.lares.dti.ne.jp/~ttakagi/diary/etc/english01.htm#19990617