喪失から獲得へ

しばらく前、村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」(新潮文庫)について書いた文章に感想のメールを送ってくださった方がいた。その文章のなかで、「ねじまき鳥クロニクル」に関する疑問点をリストアップして、そのままに放置してあった。その疑問点を再考してみようと思い、ここ一か月で村上春樹の長編を年代順に読み直してみた。疑問点のいくつかについては、回答らしいものにたどり着いたが、また、新たな疑問点も浮かんできたし、また、新しい感想もある。いま、そのすべてを書くことは手にあまるので、特に印象が強いことをいくつか順不同に書きたいと思う。

なお、ここからは、「羊をめぐる冒険」(講談社文庫)「ノルウェイの森」(新潮文庫)「国境の南、太陽の西」(講談社文庫)「ねじまき鳥クロニクル」「海辺のカフカ」(新潮文庫)の結末について触れているので、これから読もうと思われている方は読まない方がよいかもしれない。もっとも、村上春樹の小説は、その結末がわかっていたとしても読む価値が下がることはないと思うけれど。

村上春樹の小説には、似たモチーフ、テーマ、キャラクターが少しずつ形を変えながら違う小説に登場する。だから、ひとつひとつの小説を独立して読むだけではなく、彼の小説を系統的に読むことによって、理解をより深めることができる。今回、彼の小説を読み返して気がついたことの一つは、「羊をめぐる冒険」と「ねじまき鳥クロニクル」、「ノルウェイの森」と「海辺のカフカ」が似たモチーフを扱っていることだった。
羊をめぐる冒険」は失踪した友人の「鼠」を、「ねじまき鳥クロニクル」は失踪した妻の「クミコ」を探すことが主題となっている。「鼠」も「クミコ」も、邪悪な存在にの虜になっている。「鼠」は邪悪な「羊」に憑かれており、「クミコ」は綿谷ノボルに汚されている。「羊をめぐる冒険」では、羊博士が戦前の満州で「羊」に憑かれたことがストーリーの契機となり、「ねじまき鳥クロニクル」では間宮中尉ノモンハンでの皮剥ボリスとの遭遇が重要な契機となっている。「羊をめぐる冒険」では、主人公はキキ(この小説のなかでは名前を明かされず、「ダンス・ダンス・ダンス」のなかでキキという名であったことがわかる)に、「ねじまき鳥クロニクル」では加納マルタに、いずれも霊媒のような女性に導かれる。そして、キキも加納マルタも、役割を果たした後、小説の中途で退場してしまう。小さな共通点かもしれないが、「羊をめぐる冒険」では飼い猫をイワシと名付け、「ねじまき鳥クロニクル」ではサワラと名付ける。
しかし、結末は大きく異なっている。「羊をめぐる冒険」では、「鼠」が「羊」を飲み込んだまま死ぬことで決着を付ける。主人公は「鼠」を救うことはできない。「ねじまき鳥クロニクル」では、主人公が象徴的に、クミコが現実的に綿谷ノボルを殺し、クミコを救い出すことができる。
海辺のカフカ」の佐伯さんと少年の関係は、「ノルウェイの森」の直子とキズキの関係とほぼ同じである。佐伯さんも直子も、それぞれ、少年、キズキを失って、空虚な人生を過ごしている。カフカくんと佐伯さん、「僕」と直子は関係を持ち、結末では佐伯さんも直子も死ぬ。そして、「海辺のカフカ」のさくらさんと「ノルウェイの森」の緑は、主人公を現実の世界を結びつける役割をはたしている。佐伯さんと直子が死んだ後、カフカくんとさくらさん、「僕」と緑との関係が発展することを予感させる形で小説が終わる。
ノルウェイの森」では、「僕」は直子を救うことはできない。それは、「僕」がキズキではなく、直子の空白を埋めることができないからだ。しかし、「海辺のカフカ」では、少年の身代わりとなったカフカくんが、佐伯さんを救う。
村上春樹の小説が「ノルウェイの森」「ダンス・ダンス・ダンス」と「国境の南、太陽の西」「ねじまき鳥クロニクル」を境として大きな転換があるように思う。この「羊をめぐる冒険」と「ねじまき鳥クロニクル」、「ノルウェイの森」と「海辺のカフカ」の相違点は、その転換を反映している。この転換を簡単なことばでまとめると、そこからこぼれ落ちるものが多いけれど、あえて要約するとすれば、前半の小説群は喪失がテーマだったが、後半の小説群は喪失を乗り越えた獲得がテーマとなっていると思う。
この喪失から獲得への転換は、前半と後半の小説群における主人公と妻の関係を比較すると顕著にあらわれている。
国境の南、太陽の西」の結末で、島本さんと別れた後家に戻ってきた「僕」に、妻の有紀子から語る言葉が印象的だ。

「あなたは私と別れたい?」と彼女は訊いた。
・・・
「別れたくない」と僕は言った。僕は首を振った。「僕にこんなことを言う資格はないのかもしれないけれど、僕は君と別れたくない。このまま君と別れたら、僕は本当にどうしていいかわからなくなってしまうと思う。僕はもう二度と孤独になりたくない。もう一度孤独になるのなら、死んでしまった方がいい」
彼女は手を伸ばして、そっと僕の胸に触った。そしてじっと僕の目を見ていた。「資格のことは忘れなさいよ。きっと誰にも資格なんていうようなものはないんだから」と有紀子は言った。
・・・
「これが続いているあいだ、私は何度も本当に思ったのよ」と彼女は言った。「これはあなたを脅すために言ってるんじゃないの。本当のことなの。私は何度も死のうと思った。それくらい私は孤独で寂しかったのよ。死ぬこと自体はそれほど難しいことじゃなかったと思う。ねえ、わかるかしら。部屋の空気が少しずつ薄くなるみたいに、私の中で、生きていたいという気持ちがだんだん少なくなっていくの。そういうときには死んでしまうことなんて、たいしてむずかしいことじゃないのよ。私は子供のことさえ考えもしなかった。私が死んで、そのあと子供たちがどうなるかさえほとんど考えなかったのよ。私はそれぐらい孤独で寂しかった。あなたにはそれはわからないでしょう?そのことについて、あなたは本当に真剣に考えなかったでしょう。私が何を感じて、何を思って、何をしようとしてたかということについて」
 僕は黙っていた。彼女は僕の胸から手を離して、自分の膝の上に置いた。
「でもとにかく私が死ななかったのは、私がとにかくこうして生きていられたのは、あなたがいつかもし私のところに戻ってきたら、自分がそれを結局受け入れるだろうと思っていたからなのよ。だから私は死ななかったの。それは資格とか、正しいとか正しくないとか言う問題じゃないの。あなたはろくでもない人間かもしれない。無価値な人間かもしれない。あなたは私をまた傷つけるかもしれない。でもそんな問題じゃないのよ。あなたはなにもきっとわかってないよの」

村上春樹の小説のなかで、「僕」が関係を持った女性がこれほど率直に語ったのを見たことがない。「僕」は、いつも「資格」や「正しさ」といったことを考えている。しかし、「僕」に関係を持った女性たちは、結局、「僕」のもとから去っていく。
まさに、「それは資格とか、正しいとか正しくないとか言う問題じゃない」のだろう。「僕」は、自分が「資格」があるか、「正しい」かということを、自分の考えを基準として考えている。しかし、「国境の南、太陽の西」の結末部分で、「僕」が有紀子と暮らし続ける「資格」があるかどうかは、結局、有紀子に「受け入れる」気持ちがかどうかであって、「僕」が決められる問題ではない。
羊をめぐる冒険」のなかで、離婚したいと言い出した妻と「僕」の会話は、この有紀子の言葉と対照的である。

「結局のところ、それは君自身の問題なんだよ」と僕は言った。
 それは彼女が離婚したいと言い出した六月の日曜日の午後で、僕は缶ビールのプルリングを指にはめて遊んでいた。
「どちらでもいいということ?」と彼女は訊ねた。とてもゆっくりとしたしゃべり方だった。
「どちらでもいいわけじゃない」と僕は言った。「君自身の問題だって言ってるだけさ」
「本当のことを言えば、あなたと別れたくないわ」としばらくあとで彼女は言った。
「じゃあ別れなきゃいいさ」と僕は言った。
「でも、あなたと一緒にいてももうどこにも行けないのよ」

引用するために改めて読み返してみると、「僕」の冷淡さは異様な印象さえ受ける。「僕」は、「君自身の問題だって言ってるだけさ」と言っているが、離婚はこの彼女自身の問題ではなく、もしくは、彼女自身の問題というだけではなく、彼が彼女を受け入れる気持ちがないことこそが問題だろう。「君自身の問題だって言ってるだけさ」という言葉は、彼の自身の責任を放棄して、すべてを彼女に押しつけている。そして、彼は、責任を放棄していることにすら気が付かない。たしかに、このような男と結婚生活をつづけることはできないだろう。
これに比べると、「ねじまき鳥クロニクル」のなかで、チャットを通じて「僕」がクミコに呼びかける言葉は、実に力強い。

>君は僕にすべてを忘れてほしいと言う。自分のことはもう放っておいてもらいたいと言う。でもそれと同時に、君はこの世界のどこかから僕に向かって助けを求めている。それはとても小さな遠い声だけれど、静かな夜には僕はその声をはっきりと聞き取ることができる。それは間違いなく君の声だ。僕は思うのだけれど、たしかに一人の君は僕から遠ざかろうとしている。君がそうするにはたぶんそれだけの理由があるのだろう。でもその一方でもう一人の君は必死に僕に近づこうとしている。僕はそれを確信している。そして僕は、君がここでなんと言おうと、僕に助けを求め、近づこうとしている君の方を信じないわけにいかないんだ。僕はなんと言われても、たとえどんな正当な理由があっても、君のことを簡単に忘れ去ったり、君と暮らした年月をどこかへ追いやることはできない。・・・

ここでは、資格を考えることもなく、君自身の問題だと突き放すこともなく、彼女の声を信じている。ずいぶん変わったものだと思う。

前半と後半の小説群の比較は別として、「ノルウェイの森」の結末には気にかかるところがある。結末の近く、「僕」は緑を選び、そのことをレイコさんへの手紙に書く。しかし、直子にその事実を伝えることなく、彼女は自殺してしまう。
森鴎外舞姫」(新潮文庫)で、太田豊太郎は、出世を選びエリスを捨てることを選ぶが、その事実はエリスには彼が熱病で倒れているあいだに相沢の口を通じて伝えられる。豊太郎が意識を取り戻したときには、エリスは癲狂院に収容されており、万事は済んでいる。豊太郎は、自分の手を汚さずにエリスを捨てることができる。この筋立ては、いかにも豊太郎に都合がよく、エリスにとっては過酷という印象を与える。
豊太郎とエリスとの関係と「僕」と直子の関係も、豊太郎がエリスを、「僕」が直子を、その過酷な環境や運命に同情して心を寄せている点で共通している。「舞姫」ほどではないけれど、「ノルウェイの森」の結末も、直接直子を捨てるという行為をしなくて済んだという意味で、「舞姫」の豊太郎と同様に「僕」にとって都合のよいストーリーにも見える。「ノルウェイの森」が好きではない、という人は、こんなところにも引っかかりを感じるのかもしれない。

あらためて「海辺のカフカ」を読み返すと、最初に読んだときに比べて深みがある小説だという印象を受けた。語られていない部分が多く、それを読者が埋めることが求められており、それが深みを感じさせているのだと思う。
この小説は、基本的には、田村カフカくんと、ナカタさん、ホシノくんの視点から語られている。しかし、この三人の視点からは、巨大な物語のごく一部分しか見えていない。
例えば、ナカタさんの行動は、一見、ジョニー・ウォーカーが異界に入り込むために操られているように見える。ジョニー・ウォーカーを刺したことも、ホシノくんとともに高松に行って「入り口の石」を見つけ、入り口を開いたことも、すべてジョニー・ウォーカーの計画通りに見える。そのように考えれば、ホシノくんに「入り口の石」のありかを教えたカーネル・サンダースも、ジョニー・ウォーカーと同一の存在のように思える。
また、カフカくんの行動も、彼の父=ジョニー・ウォーカーの筋書き通りに見える。家出をし、父を刺し、母と姉と交わるという、父の呪いの通りに行動しており、結局のところ、カフカくんの意志はどこにもないかのようである。
しかし、ナカタさんもカフカくんも、すべてジョニー・ウォーカーの計画通りに行動しているわけではないようにも見える。ナカタさんと佐伯さんはこのような会話を交わす。

「ナカタがそれ(註:入り口の石のこと)を開けましたのは、それをあけなくてはならなかったからです」
「わかっています。いろんなものをあるべきかたちに戻すためですね」
ナカタさんはうなずいた。「そのとおりです」

ジョニー・ウォーカーの計画が、「いろんなものをあるべきかたちに戻す」ことであったとは考えられない。ナカタさんは、一見、ジョニー・ウォーカーにあやつられているように見えて、もうひとつ別の大きな意志が存在することを想像させる。ナカタさんには、もともと自分の意志や計画を持っていないから、自発的に「いろんなものをあるべきかたちに戻」そうと思い立ったわけではないはずだ。そのもう一つの意志が、「いろんなものをあるべきかたちに戻す」計画を持っているのだろう。
海辺のカフカ」のストーリーの背景には、ジョニー・ウォーカーに代表される邪悪な意志と、それを滅ぼそうとする意志との戦いがある。実際、ジョニー・ウォーカーは、自分の計画が成就する寸前に滅ぼされてしまう。そう考えると、カーネル・サンダースは、ジョニー・ウォーカーに対立する存在であったのかもしれない。
そして、ナカタさんと佐伯さんが欠落した人間になったことと、異界への入り口を開いたことと関係があることが示唆される。しかし、ナカタさんが損なわれたときの客観的な状況は語られているけれども、実際に彼の身に何が起こったのかは語られない。また、佐伯さんが失踪していたときに何をしていたのか、さまざまなことがほのめかされているけれど、具体的なことは語られない。
カフカくんは、一つの仮説を持って行動する。佐伯さんは佐伯さんの物語を燃やしてしまったため、カフカくんの仮説が正しいか、正しくないかは実証されず、仮説に留まっている。読者は、物語のすべてが語られていないため、その隙間を埋めるためには仮説を持たなければならない。カフカくんの仮説は、あくまでも彼の仮説だから、読者は読者の仮説を持って読むことが許される。物語のすべてが語られない以上、読者の仮説も、カフカくんの仮説と同様に、仮説のままにとどまる。