大蔵大臣時代の渋沢敬三

これまでに何回か宮本常一のことについて書いたことがあるが(id:yagian:20040829#p2, id:yagian:20040923#p2)、宮本常一とその師である渋沢敬三のことはいつも気になっている。昨日の日記(id:yagian:20050625)に、aonami24さんに宮本常一との思い出に関するコメントをつけていただいたことに刺激されたこともあり、渋沢敬三のことについて書こうと思う。
最近、政治学者の御厨貴がすすめている公人への聞き書、オーラルヒストリーのプロジェクトの成果をまとめた本を何冊か読んでいる。その中の一冊、中村隆英、御厨貴編「聞き書宮澤喜一回顧録」(岩波書店 ISBN:4000022091)に、終戦直後、渋沢敬三大蔵大臣になったとき、秘書官を務めていた宮澤喜一から見た印象が書かれている。その部分を引用したい。

宮澤 ……渋沢さんは日銀の総裁をしていらっしゃいましたが、ついていって、総裁が挨拶をされるのを聞いていましたが、「自分はこんなことをやるとも思わなくて、「とにかく渋沢というのは人は好いが仕事はあまりできない」みたいなことを世間でいわれるが、人が悪いよりはまあいいでしょう」という挨拶をなさっていました。
 渋沢さんは三田に大きな家をもっておられました。……そこで常民文化みたいなものを研究しながらやっていらしたんですが、世の中のふつうの仕事に対しては、どこか超然としておられるような方でした。お座敷で、船頭小唄の「おれは川原の枯れススキ」など小唄ぶりもおやりになって、それは大変なものでした。
 当時の渋沢さんには、しっかりやれというので応援団がお付きになって、大内兵衛さんなんかが応援団になられて、いろいろやられました。

……

宮澤 ……
 渋沢さんという方は、世が世ならまったく貴族ですね。ですが、三田の家はこれは後日物語になりますけれど、結局渋沢さんは自分が大蔵大臣であって、財産税をするのだから、自分は召使いか何かがいた小さな小屋に入られて、表向きの建物は全部物納されるという決心をなさって、物納をなさってんです。その後、昭和二十四、五年頃、建物がないときに、役人の三田の会議の場所としてずいぶんいろいろなことに使われました。

旧渋沢邸の跡地は、現在では三田共用会議所と呼ばれる立派な会議用の建物が建っている。一度、何かの会議を傍聴するために入ったことがある。
森鴎外には、文学者や家族の証言は多いけれど、軍人からの証言は限られている。渋沢敬三も同じように、民俗学界からの証言は読んだことがあったけれど、政財界からの証言はあまり読んだことがなかった。その意味で、この宮澤喜一の証言は、なかなか貴重だと思う。
森鴎外にも同じようなところがあるが、渋沢敬三も自分の立場になじめない感覚があったようだ。それは、自分の立場は自分で獲得したものではなく、与えられたものであることに関わりがあるのだろう。そのため「世の中のふつうの仕事に対しては、どこか超然としておられる」ということになってしまうのだろうし、自分の財産にも執着がなく財産税で物納してしまう。
しかし、皮肉なことには、渋沢敬三がのめり込んでいた民俗学の側からも、渋沢敬三に対して大きな恩義は感じつつも、本格的な民俗学者というより、お金持ちの素人学者、パトロンというイメージはあっただろう。宮本常一の回想などを読むと、渋沢敬三自身も、専門の学者に対して一歩引き、あくまでもプロデューサーとしての役割を中心に取り組んでいたようである。
私には、森鴎外渋沢敬三のような、自分のなかに収まりがつかないものを抱えながら苦闘している、という人々に強く共感するところがある。
森鴎外にせよ、渋沢敬三にせよ、二股をかけた両方の仕事は、一見どちらも成功しているようでありながら、どうしても中途半端に見える。最近、森鴎外は、軍医として出世はしたものの、あまりたいした業績はあげていないという評価が固まりつつあるようだ。そして、渋沢敬三も、政財界、民俗学界の双方で、尊敬されつつも、「渋沢さんだから」という一種特別枠で扱われている。宮澤喜一は、政財界からみた中途半端さを「超然としている」と表現しているのだろう。そして、家族には彼の生き方が理解されず、財産を物納したこともきっかけとなって、家庭は崩壊している。
森鴎外渋沢敬三のそういったやりきれなさを知れば知るほど、私の鴎外や渋沢敬三への共感は、逆に深まるばかりである。