野生と家畜

長文かつ大量の引用を予定しているので、読みづらい文章になりそうだ。多少は読みやすくするために、引用はとばして読んでもわかるように書くつもりである。引用をとばして読んでもわかるのならば、引用を省いてしまえばよいのだが、後で考察を深めるための資料として、引用を残しておこうと思う。
前置きはさておき、しばらく前、ちょっとした理由で「うさぎ」にあたるフランス語を辞書で調べる機会があった。つれあいが大学生の時代に使っていた「プチ・ロワイヤル仏和辞典」(旺文社)を借りて見てみると、うさぎの訳として、lapinとliévreの二つの言葉が出てきた。それぞれの言葉の解説を引用する。

lapin
1 [カイ]ウサギ[飼育種]; アナウサギ[穴居性の小型のウサギ]
2 《比喩的》mon[petit]〜 [子供などに対して]私のかわいいウサギちゃん …
3 《古》[乗合馬車の御者が]内緒で乗せる客(荷物)
lapin《話》大胆な男、したたかな男 chaud 〜 好色者、精力絶倫の男
lapinisme
《話》多産、子だくさん; 多産奨励政策
liévre
1 ノウサギ[属] courir comme un 〜 [ウサギのように]速く走る、脱兎のごとく逃げる
2 《スポーツ》[マラソンなどの]ペースメーカー
「プチ・ロワイヤル仏和辞典」(旺文社)

lapinは家畜種のうさぎ、liévreは野生種のうさぎを意味している。厳密に言えば、家畜種の原種であるアナウサギは野生であってもlapinに含まれるようだ。lapinとliévreの関係は、おおむね、家畜種である豚と野生種である猪の関係に相当するのだろう。
余談になるが、lapinの方には、多産、好色、精力絶倫といったイメージがあり、liévreの方には足が速いというイメージがあるのがおもしろい。小学校の頃、学校でウサギを飼っていたが、小屋のなかで穴ばかり掘っていたあのウサギには脱兎のごとく颯爽と走る、というイメージはなかった。子うさぎはどんどん増えていったから、好色、精力絶倫というイメージはうなずける。足が速いというイメージは、小屋の中に住んでいた飼うさぎではなく、野山を駆けめぐる野うさぎからきたもの、好色、精力絶倫というイメージは、繁殖力旺盛な飼うさぎからきたものなのだろう。
それでは、英語では、ウサギはどのように扱われているのだろうか。

rabbit
1 (アナ)ウサギ、飼い[家]ウサギ(野ウサギのHAREより小型で地中に穴を掘って群居し、臆病である)《一般に》ウサギ;《時に》野ウサギ … (as) scared [weak, timid] as a 〜 ひどくこわがって[弱虫だ、臆病だ]
2 a [ドッグレース]うさぎ(犬に追わせるために機械で走らせるウサギをかたどったもの) b ラビット(中距離競走でスタート直後に速いペースで仲間をひっぱる走者)

hare
1 a 野ウサギ《普通RABBITより大きく、あと足・耳が長く、穴居性がない》b 野ウサギの毛皮 c 兎座(Lepus)
2 a 《俗》無賃乗車の旅客《HARE AND HOUNDSの》ウサギ役 b 課題、研究課題
bunny
1 《幼児・愛称》ウサちゃん
2 a 《俗》(性的関心の対象としての)若い女、女の子、娘、かわいこちゃん…
「リーダース英和辞典 第二版」(研究社)

rabbit
1 a small animal with long ears and soft fur; that livese in a hole in the ground
2 the fur of meat of a rabbit
hare
an animal like a rabbit but larger; which can run very quickly
bunny
a word for rabbit, used especially by or to children
"Longman Dictionary of Contemporary English"

ロングマンの辞書の定義は、きわめて簡潔でわかりやすい。rabbitはアナウサギを指しており、hareはrabbitより大型で足が速いというからノウサギを指してるのだろう。すなわち、フランス語でのlapinがrabbitに、liévreがhareに対応している。ただし、リーダース英和辞典を見ると、rabbitとhareの区別はフランス語ほどには厳格ではなく、rabbitがウサギ全体の意味でも使われることもあるようだ。マラソンのペースメーカーは、英語ではrabbitと呼ばれているが、じっさいには逃げ足が速いノウサギ、すなわち、hareと呼ぶべきだろう。フランス語では、ペースメーカーの意味ではliévreが使われている。
おもしろいことに、フランス語のlapinには好色な男というイメージがあり、英語のbunnyには性的対象となる女性というイメージがある。いずれも、うさぎの繁殖、子沢山がイメージの源になっているのだろうけれど、なぜ、このような相違があるのか興味深い。
中国語の辞典には次のように書かれている。

兔(兔)
ウサギ <〜起鳧挙>行動が迅速な例え
「簡約現代中国語辞典」(光生館)

あまり十分な解説はないけれど、中国語では、飼うさぎと野うさぎは区別しないようだ。そして、うさぎはすばやい動物というイメージはあるようだ。
そして日本語。

うさぎ【兎】
ウサギ目の哺乳類の総称。耳の長いウサギ科と耳が小さく、小形のナキウサギ科とに大別。ウサギ科はオーストラリア・ニュージーランドなどを除く全世界に分布するが、以前いなかった地域にも移入されて野生化している。日本には北海道にユキウサギ、それ以外の地域にはノウサギがいる。また、家畜としてカイウサギを飼育。耳長く前脚は短く後脚は長い。行動は敏捷・活発で、繁殖力はすこぶる大。肉は食用、毛は筆に作る。おさぎ。
広辞苑(第五版)」(岩波書店)

「うさぎ」という言葉には、家畜種、野生種を含んでおり、lapinとliévreの区別はない。家畜種と野生種は、飼うさぎ、野うさぎのように形容詞をつけて区別する。広辞苑の記述は、思いのほか生物学的記述に終始しているため、日本語におけるうさぎのイメージはよくわからないが、私自身の語感では、うさぎにはすばやいというイメージはあるものの、男性、女性を問わず性的なイメージはほとんどないように思える。
それでは、なぜ、フランス語や英語には飼うさぎ、野うさぎを区別する言葉があり、日本語や中国語には区別する言葉がないのだろうか。
その答えを考える前に、今度は逆の事例を考えてみる。日本語では野生種である「いのしし」と家畜種である「ぶた」を明確に区別している。英語、フランス語、中国語ではこの区別は明確ではない。
今度は、日本語から辞書を引用してみる。

いのしし【猪】
ウシ目(偶蹄類)イノシシ科(ひろくはベッカリー科を含む)の哺乳類の総称。また、その一種。わが国産のものは頭胴長約1.2メートル、尾長20センチメートル。ヨーロッパ中南部からアジア東部の山野に生息する。背面に黒褐色の剛毛があり、背筋の毛は長い。犬歯は口外に突出。山中に生息、夜間、田野に出て食を求め、冬はかやを集めて眠る。仔は背面に淡色の縦線があるので瓜坊・瓜子ともいう。豚の原種。しし。い。いのこ。野猪。
ぶた【豚・豕】
ウシ目の家畜。イノシシを家畜したもの。体躯はよく肥え、皮下脂肪層がよく発達し、鼻は大きく、尾は細く短い。脚は体の割に小さい。貪食で、繁殖力が強く、肉はそのまま、または加工して、ハム・ベーコンなどとして重要な食品。ヨークシャーなど多くの品種がある。
広辞苑(第五版)」(岩波書店)

日本語では、猪という漢字に「いのしし」という読みを、豚という漢字に「ぶた」という読みをあてているけれど、中国語には「いのしし」と「ぶた」の区別はない。

猪(豬)
ブタ <一只〜>一頭のブタ。<公〜>雄ブタ。<母〜>雌ブタ。

小ブタ;又広くブタを指す。<〜鼠>モルモット。
「簡約現代中国語辞典」(光生館)

中国語での「猪」と「豚」の正確な意味の違いはよくわからないが、「猪」の方が一般的な用語のようだ。ぶたの肉は「猪肉」と表記される。ちなみに、日本語の「いのしし」を、中国語で表現する必要があるときは「野猪」という。
それでは、英語を見てみよう。

pig
1 豚; 子豚; 豚肉、豚(pork)、《特に体重60kg以下の》子豚の肉 …
2 a 《口》豚のような人[動物]、うすぎたない人、食いしんぼ、貪欲者、頑固者…

hog
1 豚肉《古》豚(swine, hog); 飼い豚、《特に》去勢した(食用)雄豚(cf. BOAR)
boar
1 豚肉《古》《去勢しない》雄豚(cf. hog); 雄豚の肉; 《動》イノシシ(= wild boar)
pork
1 豚肉《古》豚(hog, swine);《俗》議員が政治的配慮で与えさせる政府助成金[官職など]…
swine
1 a 豚★主に米語で用い、やや改まった語もしくは動物学用語。今では通例集合的に用い、sgにはpigまたはhogを用いる b 《動》イノシシ
「リーダース英和辞典 第二版」(研究社)

pig
1 ANIMAL a farm animal with short legs, a fat body , and a curved tail. Pigs are kept for their meat, which includes PORK, BACON and HAM; = hog
hog
a large pig that is kept for its meat;
boar
1 a wild pig 2 a male pig
pork
1 the meat from pigs
swine
2 old use pig
"Longman Dictionary of Contemporary English"

相変わらずロングマンの定義は簡潔でよい。英語では、直接「いのしし」を指す言葉はないようだ。しかし、「ぶた」については、詳しく区分する言葉があるようだ。「ぶた」の総称がpig、食用の去勢雄豚がhog、種豚がboarである。動物学的な意味で「野生のぶた」すなわち「いのしし」を指すときには、boar, wild boar, swineを使うようである。しかし、これらは必ずしも一般的な言葉ではないようである。
さて、フランス語。

cochon, ne
豚; 汚い人
1 豚; [特に食肉用に去勢した]雄豚
2 豚肉 → porc
3 猪(= sauvage, sanglier)
marcassin
猪の子[生後6か月未満]
「プチ・ロワイヤル仏和辞典」(旺文社)

フランス語でも、cochonという言葉は、「ぶた」「いのしし」の双方を含む言葉のようだ。ただし、ジビエ(狩猟された獲物)として食べられる「いのししの仔」については、marcassinという特別の言葉がある。
それでは、材料がそろったところで、lapinやliévre、「ぶた」と「いのしし」の区別がある言語と区別のない言語がある理由について考えてみたい。といっても、まだまだ材料が不足していて粗雑な考察にしかならないけれど。
lapin、liévreという言葉をインターネットで検索すると、ヒットするページは、ほとんど食肉としてのlapinやliévreについて書かれているものである。日本語の「兎」や「うさぎ」で検索しても、食肉としてのうさぎに関するページはほとんど見つからない。日本でもうさぎを食べないこともないけれど、うさぎという動物を、まっさきに食用として想像することはないだろう。一方、フランスでは、lapinやliévreは、動物としてだけではなく、肉として意識されているのである。イギリスでもフランスと似た状況にあり、rabbitで検索すると、兎料理のレシピを紹介したページが見つかる。ピーターラビットでも、お父さんはお隣の農夫のマクレガー一家にミートパイにされて食べられてしまったという設定だし、ピーター自身もマクレガー一家の畑にどろぼうに入って、もう少しでミートパイにされてしまうところだった。
動物として考えれば、飼うさぎも野うさぎも一つのカテゴリーに分類してさほど問題はない。しかし、肉として考えると、家畜のうさぎのやわらかい肉と、野生のうさぎのかたく野趣がある肉とでは、まったく違うものだろう。だから、それぞれ独立した名前が付けられているのではないだろうか。野うさぎの狩猟はイギリスでもフランスでも行われているが、フランスでは、狩猟された獲物をジビエと呼び、特に珍重しており、liévreジビエのなかでも代表的な獲物のうちの一つである。だから、英語よりフランス語の方が厳格にlapinやliévreを区別しているのである。
一方、日本では、「いのしし」は、鴨や鹿と並んで狩猟の対象となる代表的な動物である。猪肉を使った鍋料理に「ぼたん鍋」という名前が付いているように、日本ではいのししは動物であるとともに食肉でもある。だから、家畜である豚と区別して別の名前で呼ばれている。
フランスでも、ジビエとして食べられるいのししの肉に対しては、marcassinという言葉がある。このことは、フランスでは、「うさぎ」や「いのしし」が、動物としてより、食肉として捉えられていることを示していると思う。
広辞苑の「猪」の項に、「ヨーロッパ中南部からアジア東部の山野に生息する」と書かれているが、イギリスにはいのししはほとんどいないのではないだろうか。だから、いのししを食することもなく、いのししに相当する言葉がないのではないか。
問題は、中国である。中国にはいのししは存在してそうであるし、そうであれば、食用にしたと思われる。それにも関わらず、なぜ、「いのしし」に相当する言葉がないのだろうか。
この考察をつづけるには、野うさぎといのししの正確な分布、家畜化された地域と時代、家畜化されたうさぎと豚がそれぞれの地域にもたらされた時代、うさぎ、いのししに関する言葉の語源、変遷などを調べる必要がありそうだ。
さらに、犬と狼は、「食用にされた野生動物は、家畜化された動物と区別された名称を持つ」という説には該当しない。もう少し材料集めを進める必要がありそうだ。