にわかシャーロッキアン

ネタバレ注意。この先、コナン・ドイル「四つの署名」(新潮文庫 ISBN:4102134069)のストーリーについて書かれています。それにしても、いまどき、「四つの署名」のネタバレで困る人がほんとうにいるのだろうか。



シャーロック・ホームズものはアラだらけである。しかし、そのアラには愛嬌がある。その愛嬌こそが、シャーロック・ホームズものの最大の魅力になっていて、それゆえ、シャーロッキアンと呼ばれる人々は飽きもせずアラを探してつっこみを入れているのだろう。
先日の日記(id:yagin:20050724)で、こんな趣旨のことを書いた。「四つの署名」を読んだが、どうしてもにわかシャーロッキアンになって、アラにつっこみをいれずにいられなくなる。
「四つの署名」を読んでいていちばん気になったのは、シャーロック・ホームズとワトソン博士の関係である。この二人の関係はシャーロッキアンも気になるらしく、ワトソン博士女性説や、なかには、ホームズ女性説というものもある。しかし、ごく素直に二人の言動を読むと、ホームズはワトソン博士に恋愛感情を持っているゲイであり、ワトソン博士はそれに気がついていない鈍感な男に見える。
例によって、具体的に引用しながら、ホームズゲイ説について考えてみたい。
ワトソン博士は、「四つの署名」の依頼人、メアリ・モースタン嬢と恋に落ちて、結末では婚約する。物語の序盤、謎の男からの呼び出しによって、ホームズ、ワトソン博士、モースタン嬢の三人が、辻馬車に乗っている場面である。

 ホームズは馬車のなかで、ぐっとうしろへ寄りかかった。眉をひそめて、ぼんやりと一つのところを見つめているその様子で、彼が一心に考え込んでいるのがわかった。モースタン嬢と私は今晩の奇妙な冒険のことや、それがどういう結果になるだろうかといったような問題を、ひくい声で話しあっていたが、ホームズは馬車がとまるまで、ついに一言も口をきかなかった。

ワトソン博士は、モースタン嬢に一目惚れをしている。ワトソン博士に恋をしていて、観察力が異常に鋭いホームズがそれに気がつかないはずがない。ワトソン博士とモースタン嬢が話し込んでいる脇で、ホームズはヘソを曲げて押し黙っている。
この場面だけでは、ホームズがヘソを曲げているということが邪推に思われるかも知れない。それでは、次の場面はどうだろうか。

「……ワトスン君、君は疲れたようだね。そのソファに横になりたまえ。僕が眠らせてあげるよ」
 いわれたとおり横になると、ホームズはへやのすみから例のヴァイオリンをとりあげて、夢みるような自作のしらべを低く奏でだした。彼は即興楽にたいしてすぐれた天分があるのだ。私は彼のほっそりした手足や、まじめくさった顔つきや、弓のあげさげを眺めながら、その快いリズムに聞きいるうちに、うとうとと甘美な世界に引きいれられて、いつしか夢路をたどり、うえからのぞきこむメアリ・モースタン嬢のえもいわれぬ笑顔を眺めているのであった。

疲れているワトソン博士を寝かしつけるために、まじめにバイオリンを弾くホームズ。いわれた通りに横になりながら、モースタン嬢の夢を見るワトソン博士。なんとあわれなホームズ。
そしてその翌日。ワトソン博士は、こともあろうにモースタン嬢の家を訪問すると言い出す。

「そうさ。そのついでにモースタン嬢もさ。二人ともあれからどうなったか、大いに心配していることだろう」
「僕ならあの人たちにはあんまり喋らないね。女はとかく安心ができない。よほど立派な女でもねえ」
 私はこんな皮肉屋の相手になって、議論なぞしている気はなかった。
「一時間か二時間で帰ってくるからね」私はいった。
「いいとも!幸運を祈るよ!……」

鈍感なワトソン博士。昨晩、ホームズにいわれるままに横になって、バイオリンを聞きながら寝入ったのに、ホームズの気持ちには露ほど気がつかない。気がついて無視しているのだとしたら、それはそれで残酷な男。
一時間か二時間で帰ってくると言っていても、モースタン嬢に会いに行くのである。そんなにはやく帰ってくるはずはない。

 私がカンバーウエルの家を辞したのは夕がただったから、べーカー街に帰りついたときには、あたりがすっかり暗くなっていた。ホームズの読んでいた本とパイプは彼の椅子のわきにあったが、本人の姿はどこにも見あたらなかった。何か書きおきでもあるかと、さがしてみたが、それもない。
「ホームズ君は出かけたのでしょうね?」ハドスン夫人がブラインドをしめにきたので、私はきいてみた。
「いいえお出かけじゃございませんよ。お寝室へいらしたのでございましょう。ご存じなかったのでございますか?」といったが夫人は急に声をおとして、「おからだは大丈夫でございましょうねえ?」
「どうかしたのですか?」
「ええ、すこし変でございますのよ。あなたがお出かけになりましてから、いつまでもいつまでもお部屋をこつこつ歩いてばかりいなすって、ほんとにうるさいくらいでございましたよ。それからご自分のお部屋へおはいりになりましてからも、何かしきりに独りごとをおっしゃてでございましたが、玄関でベルが鳴るたびに階段のうえまで出ていらして『いまのは何ですか、ハドスンさん?』て、いちいちおききになるんでございますよ。いまもやはりお部屋でこつこつ歩いていらっしゃるようでございます。ご病気にでもならなければようございますがねえ。わたし熱さましでもおあがりになったらと申しあげましたら、こわいお顔をなすったので、びっくりして後をも見ずに逃げてきましたんでございますよ」
「いや心配はないでしょうよ。こんなことは以前にもあったんだからね。何かちょっとした考えごとでもあって、それでいらいらしているだけですよ」

これほどの鈍感さは罪である。「こんなことは以前にもあったんだからね」とは。ひとごとではないですよ、ワトソン博士。
そして、残酷なラストシーンがやってくる。

……しばらく無言で煙草をふかしつづけてから私が感想をもらした。「君のお手並みを拝見するのもこれが最後だと思う。モースタン嬢は僕の妻になる承諾をあたえてくれたからね」
 ホームズは悲しげにうめてい、
「そんなことになりゃしないかと思っていた。だが僕はおめでとうはいわないよ」
 私はすこし気にさわった。「君はこの結婚に不満な理由でもあるのかい?」
「そんなことはけっしてない。あんな愛らしい夫人はないとさえ思っている。……しかし恋愛は感情的なものだからね。すべて感情的なものは、何にもまして僕の尊重する冷静な理知と相容れない。判断を狂わされると困るから、僕は一生結婚はしないよ」
……
「それはいささか不公平なようだな。この事件はみんな君がやりあげたんだ。僕のおかげで妻まで得るし、ジョーンズは名声を博する。それで君自身はいったい何を得るんだい?」
「僕か、僕にはコカインがあるさ」といってその瓶をとるべく、シャーロック・ホームズはほっそりした白い手をのばした。

なんとういう悲劇。ホームズは、はじめからこうなる結末を見通しているが、どうすることもできない。そして、ワトソン博士は無邪気にモースタン嬢を手に入れたことを喜んでいる。
これまでは、プイグ「蜘蛛女のキス」(集英社文庫 ISBN:408760151X)が、ゲイの悲恋の物語の代表だと思っていた。しかし、「四つの署名」のホームズほどの悲恋はあるのだろうか。彼の理性は、彼に、自分の感情が満たされないことを教える。彼には、もう、コカインしか残されていないのである。
いったい、コナン・ドイルはいったいどのようなつもりでこの小説を書いたのだろうか。意識的にホームズの悲恋を描いたのか、そんな意図はなく結果的に究極の悲劇を書いてしまったのか。ドイルの意図が見えないところが、シャーロッキアンの心をくすぐる源のように思える。
まだ、広島に着かないけれど、電池がなくなってきた。今日はここまでにしよう。