聖者の行進

ニューオーリンズの市街地が、ハリケーンの被害で浸水し、大きな被害が出ているという。災害が起きた当初は、被害の全体像を把握するのが難しく、報道も断片的で、現在のニューオーリンズの実情が正確にわかるわけではない。しかし、その断片的な報道ではあるが、浸水した市街地では、治安が崩壊し、救援のための物資の輸送も危険な状態にあるという。ゾンビ映画を連想したと書かれていたウェブログを目にしたが、私は、「AKIRA」のネオ・トウキョウを連想した。
今日、愛知万博に行ってきたばかりのアメリカ人と話をした。彼は、トヨタ館でロボットがトランペットで「聖者の行進」を演奏するのを見たという。「聖者の行進」は、ニューオーリンズのテーマソングというべき歌で、黒人の葬送歌でもある。しかも、演奏しているロボットが白く、しかも、まわりの人は手拍子をしているのを見ていたら、自分はどうしたらいいかわからなくなったという。もちろん、トヨタ館に集まっている人々は、そのようなことは知る由もなかったのだろうけれども。
今回のハリケーンに対するニューオーリンズ市の対応を見ていると、日本の国、地方自治体の防災対策は、悪くない、かなりがんばっているのではないかと思う。
ここから書くことは、正確な知識に基づくものではなく、きちんと調べているわけではないから、いろいろ誤りが含まれているかもしれない印象論として読んでほしい。
日本では、行政改革のテーマとして、政府支出の削減、予算の硬直性の打破、地方分権の推進などが掲げられてきた。政府支出の削減、予算の硬直性の打破の手段として、公共事業の削減が主張されてきた。公共事業が政治家の利権となった必要性の低い公共事業が、地方の建設業者を存続させるために実施され、自然環境が破壊されている。その象徴としてダム事業や高速道路事業がある。民主主義、地方分権の「先進国」米国では、ダム事業は行われなくなったではないか、日本でも「脱ダム」をせよ、また、道路公団を民営化し、採算がとれる高速道路だけを建設せよ、というわけである。
私自身は、特に公共事業の推進派の肩を持つわけでないけれど、公共事業を目の敵にする人は、いささかバランスを欠いているようにも思う。
私が小学生や中学生の頃、社会科の授業で、日本のインフラ整備が欧米諸国に対して遅れているということを示す道路の舗装率や下水道普及率のグラフを見た覚えがある。私が生まれ育った東京都北区は下水道の普及が早かったけれど、母方の実家がある目黒区では、下水道の整備が遅れ、ずっと単独浄化槽だった覚えがある。電車の混雑や自動車の渋滞も激しかった。子どもの頃は都バスで移動することが多かったけれど、渋滞のため、時間がまったくあてにならなかったような記憶がある。
しかし、現在では、下水道もおおむね整備され、地下鉄の路線もずいぶん増えたせいか、通勤電車の混雑も以前ほどではなくなったように思う。首都高速道路の整備や道路の拡幅も少しずつ進み、そのため渋滞が緩和されたように思う。そのせいか、また、渋滞の予測に基づいて運行スケジュールをきめているためか、わりあい正確な時間で運行されている。
農村についても、正確な統計に基づいているわけではないが、私の実感では、ガット・ウルグアイラウンド交渉の結果、コメのミニマムアクセスが決まった後、ウルグアイラウンド対策費として、農村部の生活基盤整備に大盤振る舞いされ、一気に生活基盤が整備されたような印象がある。農村といってもさまざまなところがあるけれど、自動車で移動することがでれば、おおむね生活に不便はなくなたと思う。自動車で移動できない高齢者や子どもは、不便かもしれないけれど。
これだけ生活基盤の整備が進んだ現状では、いままで通りに、あらたなインフラ整備に投資する必要はないことは明らかである。これまでに整備したインフラの維持、更新にもお金がかかるから、これからインフラ整備を進める時には、維持、更新経費が確保できるか慎重に考える必要もあるだろう。しかし、だからといって、これまでのインフラ整備が特定の人々の私腹を肥やすための無駄な投資だったというわけでもないし、地域によってはまだインフラ整備が必要なところはあるだろう。
ニューオーリンズ市の浸水被害を見ていると、今回のハリケーンの規模がどれほどのものだったかよくわからないけれど、防潮や排水のための施設整備が不十分だったのではないか、という疑問がわく。これについては、いずれ、しっかりとした検証結果を読んでみたいと思う。日本でも、かつて伊勢湾台風で大きな被害がでたことがあるが、そのころに比べて防災のための施設整備が進み、水害に対しては安全性が高まったことは間違いない。
田中康夫が「脱ダム宣言」を読み、これで大丈夫なのだろうかと疑問を感じた。洪水の氾濫域にあまり住居がないアメリカと、氾濫域の人口密度が高い日本では、水害に対する対策は違うのが当然である。田中康夫は、ダムの整備の代わりに森林整備を進めたいと主張していた。しかし、治水ダムによって洪水の発生を防ごうとする規模の降雨の際、森林がダムと同程度の降雨を貯留することはできない。ダムは巨額な投資を要するし、自然環境への影響も大きいから、新設する時には必要性を慎重に検討することはもちろん必要だが、ダムを森林整備で代替できるという考えは明らかな誤りである。地域によっては、現在でも治水ダムの新設が必要とされる可能性はある。公共事業を削減するシンボルとして「脱ダム宣言」をすることの意義は認めるが、単純にダムの建設を一律中止するということであれば、安易で軽率だと思う。
高速道路にかかわる改革は、道路公団の民営化が焦点となっていたが、これも真の問題からややずれていたような印象がある。たしかに、道路公団はさまざまな問題を抱えている組織だったようだから、組織自体の抜本的な改革は必要だろうし、そのためには、民営化も一つの方法だと思う。しかし、高速道路の問題は、道路公団が建設、運営をしているということよりは、郵便貯金を原資とした財政投融資資金を利用し、料金収入によって返済をするという資金調達の方法が限界に来ていたということだと思う。
高速道路の建設も、ダムと同様に巨額な資金を必要とする。税金によって建設していたのでは、資金の制約で、高速道路の建設がなかなか進まない。自動車専用道路であれば、料金を徴収することで収入を得ることができるから、借金をして建設することができる。財政投融資資金を活用すれば、税金によって建設した場合に比べ、はるかに早いスピードで建設を進めることができる。
高速道路は、おおむね需要が大きい、交通量が多い路線から建設が進められる。交通量が多い路線では、それだけ多くの料金収入が見込まれるから、この資金調達の方法に問題は生じない。しかし、徐々に、十分な交通量、料金収入が確保できない路線を建設するようになると、借金の返済がおぼつかないことになってくる。これが現状だと思う。
道路建設の必要性と、その道路の採算性は、別の問題だと思う。実際、有料道路ではない一般の国道、県道などは、税金か、将来の税金で償還する建設国債を原資として建設され、料金収入は得られない。その意味では、このような道路は採算性はないけれど、必要だから建設をしているということになる。高速道路でも、必要性があれば建設しなければならない。しかし、採算性が確保できないのであれば、財政投融資資金を利用して建設すれば将来破綻してしまう。ここ、すなわち、資金調達の方法こそが問題である。
だから、これからの高速道路の建設は、財政投融資ではなく、税金を原資とした補助金で進めるべきである。補助金だけでは確保できる資金が大幅に減少して、高速道路の建設のスピードも遅くなるだろうが、これはやむを得ない。
ダムにせよ、高速道路にせよ、インフラ整備が不十分だった時代に比べ、新たに建設する必要性は減少している。高速道路は、資金の調達方法に問題がある。しかし、必要なインフラは整備しなければならないことは、今回のニューオーリンズの被害が示しているように思う。
以前、海外の地方自治制度を調べたことがあるが、その時に驚いたのは、日本の市町村が提供している行政サービスの範囲が広いことだった。日本の税金は地方税に比べ国税の比率は高いが、地方交付税補助金の形で地方自治体に流れている。1人あたりの金額にすると、地方自治体が使う金額は欧米諸国に比べ高い水準にあった記憶がある。地方自治体の効率性の問題もあるから、金額が多ければそれだけ行政サービスが充実していると一概にいうことはできないが、実感としても日本の市町村の行政サービスは行き届いているという印象がある。
阪神大震災の時、日本の政府、自治体がどこまで適切に行動できたか、という点に問題がなかったわけではないだろうけれど、今回のニューオーリンズ市の対応のレベルの低さには驚かされた。これも、しばらく時間が経ってから、冷静な検証をしてほしいと思う。ニューオーリンズ市は、ハリケーンが接近してきたときに、全市に対して避難勧告をした。しかし、断片的な報道を見る限りは、避難のための適切な計画はなかったように思える。市外へ避難できなかった市民に対しては、スーパードームへの避難を勧告したようだけれども、そこに十分な水、食料の備蓄がなされていたわけではないようだし、そもそも、地域ごとに分散した避難所を確保しなければ、スーパードームまで避難できない市民も多いだろう。
今回のハリケーンが記録的な勢力を持っていたにせよ、おそらく、市内のかなりの部分が水没するような災害の可能性は想定しえたのだろうし、適切な避難計画を持っていなかったとすれば、日本のニューオーリンズ市程度の規模の市であれば、ありえないと思う。それは、国や都道府県から資金が移転されることで、ニューオーリンズ市より大きな資金、スタッフを持っていること、また、国や都道府県から資金が移転する際に指導、規制、情報の提供が行われることがその理由の一部となっていると思う。
しかし、一方で、このような国、都道府県からの資金の移転や、それに伴う指導、規制、情報の提供は、行政改革のテーマとなっている。国から見れば、支出の削減のためには地方自治体への資金の移転を減らしたいと考えている。また、国からの指導、規制、情報の提供は、確かに、地方自治体を画一的にしている。また、地方自治体が国に対応するための事務経費もばかにならない。
地方分権は、国の持っている権限を地方自治体に配分するという発想である。おそらく、アメリカでは、そもそも地方分権という発想すらないのではないか。基本的な権限は個人が持っている。しかし、個人で社会生活をまっとうすることはできないから、いわば必要悪として地方自治体やさらには連邦政府を存在させている、という発想なのではないか。アメリカの連邦政府は、日本の政府に比べはるかに権限が限定されているし、地方自治体も同様である。もちろん、このような成り立ちであれば、連邦から地方自治体へ地方交付税が配分されるといった発想はないし、連邦政府から地方自治体への介入も最小限のものとなる。
日本人はお上だよりで、アメリカ人は自主独立の気風があってすばらしい、もっと日本人も自主独立の気風を養わなければならない、といいったことを聞くことがある。しかし、国の成り立ちが違うのだから、かんたんにどちらのやり方がよいか決めることはできないだろう。実際、ニューオーリンズ市で、市外へ避難できず被害を受けている人たちの多くは、避難することができなかった社会的弱者が多いのだろう。避難できない人に、自主独立の気風がないと避難することは無意味である。地方自治体が避難所を準備して、避難を支援するのは当然であり、これをお上だよりといって非難することはできないだろう。
結局、バランスの問題なのだと思う。日本の公共事業は、現在となっては行き過ぎもあるから抑制しなければならない。しかし、必要なものは作らなければならない。少子高齢化が進み、政府、地方自治体が税金や人材を確保することが難しくなることが予測されているから、いまよりは、行政サービスが低下する分、自主独立の気風で補わなければならないけれど、最低限行政サービスとして確保しなければならないものがある。
あまりに、話を単純化する人は、信用できないと思う。