自分探し

今回の衆議院選挙自民党の勝因、民主党の敗因については、すでにさまざまなことが語られている。選挙の前であったけれど、自分も書きたいことは書いた(id:yagian:20050813#p2、id:yagian:20050815#p2)から、もう、付け加えることはあまりない。
文藝春秋(2005年10月号)の御厨貴の論説は、すべてに同意できるわけではないけれど、今回の衆議院選挙をめぐる構造的な要因を手際よくまとめてあった。

 なぜ政権政党たらんとする野党ではなく、もっとも旧態依然とした自民党に「自己改革」のチャンスが訪れようとしているのだろうか。
 実は変化の兆しは、現政権よりもっと前から始まっていた。
 まず、橋本行政改革によって、内閣府内閣官房の権限が高められ、派閥調整型の無関係に総理のリーダーシップが発揮できるようなったことが大きい。さらに小選挙区制の導入で、自民党は、ムラ政治の「談合型」から、近代的な「中央集権型」に変わってきた。
 このシステムの強力さは、歴代幹事長に比べれば明らかに力量の落ちる武部幹事長ですら、候補者選定において、党本部のパワーを存分に発揮できていることからも明らかだ。
 同様に、内閣中枢が、官僚や学者を直接抱え込むこともできるようになった。たとえば小泉政権においては、財政・金融問題それに郵政民営化問題のすべてを経済学者、竹中平蔵にまかせた。その成果には賛否両論あるが、少なくとも自ら担当した問題については明確に語られるようになり、政治的手腕を人事面で発揮できるまでに成長した。つまり、彼は明らかに政治家へと「化けた」のだ。自民党は、アマチュアを政治にプロにする実験場をつくり、一定の成果をあげた。
 こうした近代的な政党モデルは、本来、民主党が描いた理想であった。強いリーダーシップで改革のスピードをあげ、知識人の力も存分に導入する。そのモデルを自民党が先取りしたわけである。実は野党モデルの先取りは、自民党のお家芸であった。

衆議院選挙の結果の主な原因は、「民主党が描いた理想」を「自民党が先取り」したことによるのだろう。それに加え、小泉純一郎岡田克也の個性の対比も、もちろん大きな影響を与えた。岡田克也には、小泉純一郎のようなカリスマがなかったと言われている。それでは、そのカリスマとは、具体的には何なのだろうか。
小泉純一郎を見ていると、デイヴィッド・ハルバースタム「ベスト&ブライテスト」(サイマル出版界 ISBN:4377302914)にでてくるジョン・F・ケネディリチャード・ニクソンの人物評を思い出す。

……リチャード・ニクソンも貧しい家に生まれ、華やかさを知らず、青年時代には人に負けまいと、ガリ勉にハケ口を求めていたが、その結果、自分をさらけ出すことにつねに恐怖と不安を感じる、最も隠れた政治家になった。
 だが、ケネディにはなめなければならない傷はなかった。……ジョン・ケネス・ガルブレイスは、これほどありのままの自分をさらけ出して不安を感じない人間は見たことがない、とまで言っている。(キューバ侵攻事件の失敗を他人の責任に帰せず、自ら受け入れることができたのも、このためである)。
 1960年の選挙戦で、誰かが、お疲れでしょうと尋ねると、ケネディは「いや疲れてはいない。気の毒なのはニクソンのほうだ。疲労困憊しているに違いない」と答えた。「どうしてですか」との問いに彼は言った。「私は自分が何者かよく知っているから、いちいち態度や様子を変えることに心を使わなくてもいい。演説会場に着けば、自分なりに話し、自分なりに動いていればいいのだ。だが、ニクソンは自分が何者なのか、確信がない。だから演説のたびに、今度はどっちのニクソンでいくのか決めなくてはならないわけだ。これでは疲れてしまうのも無理はないだろう」
 ケネディケネディ家のもつ恐ろしいまでの権力をごく自然なものとして捉え、常に冷静勝つ沈着に距離をおいて物事を見ることができたのは、権力追求者にありがちな激昂、傍若無人さ、理性の喪失などを、彼の父親がすべて肩代わりしてくれたからである。

小泉純一郎は、ここで描かれているジャック・ケネディにそっくりである。小泉純一郎も、常に、「自分なりに話し、自分なりに動いて」いるように見える。そして、彼も世襲議員であり、自分の権力をごく自然なものとして受け入れているように見える。岡田克也は、ニクソンとはちがうタイプであるが、「自分なりに話し、自分なりに動いて」いるようには見えないところは共通している。
ケネディニクソン小泉純一郎岡田克也を見ていると、人から見られる政治家にとっての自分の感情とのつきあい方の重要さを感じる。ケネディ小泉純一郎が、「自分なりに話し、自分なりに動」くことができるのは、なすべきことと感情とが一致しているからだ。ニクソン岡田克也は、なすべきことと、感情が一致していないのである。
岡田克也は、有能であり、悪い人ではないのだろうと思う。実際に会って話せば魅力的かも知れない。しかし、テレビを通して見る彼は、所在なく目が泳いでいる。民主党党首としての発言は、彼が本心で話したいことと一致しているようには思えない。
小泉純一郎岡田克也を並べてみると、岡田克也の方が誠実に見える。しかし、小泉純一郎は、その発言の内容の是非や論理的整合性は別として、少なくとも、彼自身が思っていることを語っているように見える。岡田克也は、論理的には正しい発言をしていたとしても、それは、あくまでも党首としての発言であり、必ずしも発言の内容を彼個人として信じているようには見えない。小泉純一郎の方が、より多くの人から信頼を獲得できたのは、このためではないだろうか。
皮肉なことであるが、発言と感情が一致しているように見えたもう一人の立候補者は、堀江貴文だったと思う。特に、選挙が終わってからの彼のインタビューは、発言の内容も率直だったし、彼の気持ちがよく伝わってきた。彼がこれからも政治家になろうとするかわからないけれど、将来性を感じた。
一方、菅直人を見ていると、彼こそが「自分が何者なのか、確信がない」ニクソンに似た政治家ではないかと思う。しばらく前、誰かからアドバイスされたためか、無理をして笑顔を浮かべていたことがあったが、いかにも心にもない笑みのように見えて、かえって印象が悪かった。菅直人は、常に、なにか満たされない欲求によっていらだっている。それは、「自分が何者なのか、確信がない」ためではないだろうか。
前原誠司は、どうだろうか。小泉純一郎に対抗するには、「自分が何者であることをよく知」り、感情に裏打ちされた発言をすることが必要だ。