社会的貧乏

柴田元幸のエッセイを読んでいると、ただ単に共感するだけではなく、この人は自分とものの感じ方がよく似ているとつくづく思う。同じようなことを感じているのに、柴田元幸はこんなに軽快なエッセイが書くことができ、自分の書くものが軽快さからほど遠いことを少しだけ悔しく思う。そういっても、そもそも書けるはずもなく、悔しく思ってもどうしようもないけれど。
衆議院選挙があり、ここのところ、政治のことを考えていたこともあって、柴田元幸「生半可な學者」(白水社 ISBN:4560073333)を読んでいて、こんなところが気になった。

 アメリカは建前としては誰もが成功のチャンスを与えられている国である。そういう国にあって、貧乏とは本来あってはならない状態である。ある人が貧乏なのは、その人がチャンスを生かしていないか(要するに努力が足りない)、あるいはその建前自体が嘘八百であるか、どちらかということになる。まあ文学ではたいてい後者の視点をとる。
 これがたとえばロシア文学だと、貧しい人がお腹をすかして寒さにふるえていれば、それはいわば、人間の状況そのものを物語っている。ああ、いきるってことはつらいのだなあ、という実感がひしひしと伝わってくる。それは一着の着古された外套が人間的真実を伝えうる文学である。
 アメリカ文学ではこうはいかない。貧しい人が腹をすかし寒さにふるえていたところで、たいていの場合それは、要するに世の中が悪い、政府が悪いということにすぎない。ロシア文学が実存的貧乏を語っているとすれば、アメリカ文学は社会的貧乏を語っている。そして社会的貧乏は実存的貧乏よりつまらない。残念ながら、貧乏の迫力においてアメ文は露文にかなわない。

小泉純一郎竹中平蔵路線をアメリカ寄りとして嫌う人がいる。その理由の一つとして、「建前としては誰もが成功のチャンスを与えられて」おり、「その人がチャンスを生かしていない」「(要するに努力が足りない)」とするような考え方にあるのだろう。
確かに、成功している人を見ていると、たいてい、桁外れの努力をしている。そういう成功している人から見れば、特に成功をしていない普通の人々は努力をしていないように見えるのだろう。そして、桁外れの努力をする人がいてこそ、社会、経済全体が前進することもまちがいない。
しかし、一方で、社会的理由でチャンスがきわめて限られていたり、そもそも努力をする機会、能力を奪われている人びともいる。成功しない理由を、「要するに努力が足りない」と切って捨てるわけにはいかない。
パイを大きくするにはより多くの人が桁外れの努力をするようにしなければならない。それだけに注力すると、パイの分配に偏りができてしまうから、その調整が必要だ。しかし、パイの分配の偏りの調整をすると、既得権益が生じやすいし、パイを大きくする力がそがれることもある。
要はバランスの問題である。
今は、改革、改革というかけ声で、パイを大きくする方向に目が向いている。けれども、いずれかは、パイの分配の問題に目が向けられる時がやってくるに違いない。その時こそ、民主党が……
と、社会的貧乏の話を書いてきたけれど、どうも今ひとつつまらない。心にぐっとこない。書いていてあきてしまった。やっぱり、「社会的貧乏は実存的貧乏よりつまらない」。
自分の心にぐっとこない話を書いてもしかたがない。ニクソンではなくケネディでいかなくては*1

*1:id:yagian:20050917#p2を参照