マニフェスト再考

早稲田大学教授という豊永郁子「マニフェスト政治にもの申す」というコラム*1を読み、腑に落ちるところがあった。
マニフェストという形で政策を提示することは悪いことではないが、それだけで投票先を選べるものではないと思っていた。特に、今回の選挙前に出された民主党マニフェストは、詳細で数値目標も示されているけれど、枝葉が中心で幹となる根本的な思想がわからないと感じていた。
豊永郁子氏の書く以下の部分には同感である。

そもそも、われわれは着地点が簡単には見通せない状態、予期し得ない事態、次から次へと浮上してくる新しい問題に対処するために、政治家を選ぶ。われわれがあらかじめ選んだプログラムがそのまま遂行されればすべてが済むのであれば、政治家は必要ない。官僚だけですむ話であろう。

予期しない事態に対処するための政治家を選ぶための重大な基準は、根本的な思想と信頼の二つだと思う。
行政は、誰がやっても大きな間違いが生じないように制度をデザインする。そのため、誰がやっても同じ結果が得られるように、個人の判断、裁量の余地を制限する。だから、融通が利かないことがあるが、その融通の利かなさは、大きな誤りを防ぐためのやむを得ない副作用でもある。
一方、政治は、予期できない事態に対処することが役割だから、あらかじめ判断基準を設定することができない。それぞれの政治家の判断にゆだねられる。個人の判断に依存するから、誰がやっても同じ結果が得られるわけではない。大きな間違いが生じないように制度をデザインすることができない。だから、政治家その人自身の資質が問われることになる。
政治家は、判断を誤らないための教養、良識は重要だけれども、政策の細部まで精通している必要はないと思う。政策の細部は、官僚、学者などの専門家が検討して詰めていけばいい。政治家は、専門家の説明を受けて、大きな誤りがないか判断することが役割だと思う。だいたい、きちんとした教養、良識のある一般人が理解できない政策はろくなものではない。
そういう目で民主党マニフェストを読むと、政治家より官僚が似合う才子が作っているような気がするのである。