残酷な楽しみ

昨日、今日と、フィギュアスケートのグランプリ・ファイナルの中継をじっくりと見てしまった。
浅田真央については、「時分の華」という言葉が当てはまる、という以上のことは書きようがない。
競技者の側ではなく、観客の側から見ると、失敗するか、失敗しないか、というスリルが、フィギュアスケートの見所のひとつとなっていると思う。そういう意味では、スルツカヤ浅田真央よりも、安藤美姫が、いちばんスリルがあった。
自信なさげで不安そうな安藤美姫の表情を見ていると、見ている私すら、演技が始まる前から失敗するのではないかと思って緊張する。今回、フリーの演技で、最初のジャンプで不自然な形で転倒をし、ますます不安な気持ちが高まる。結局、三回も転んでしまい、彼女自身の落胆が画面を通じて伝わってきた。
もちろん、私は、彼女が成功してくれればと思いながら演技を見ており、失敗をするのを見ていると胸が潰れるような気分になり、気の毒に感じる。しかし、安藤美姫の演技がスリリングに感じられるのは、彼女が失敗するかも知れないということを予測しているからであり、心のどこかで彼女の失敗を見ることを楽しんでいる自分がいる。
まったく素人の想像だが、安藤美姫の苦悩の源は、注目を集めたことによる精神的なプレッシャーよりも、若い頃のようにジャンプが飛べなくなってしまった、というところにあるのではないだろうか。その原因が、年齢を重ねたことによるのか、どこか怪我をしているのかはわからないけれども。
かつては楽に、確実にできていたはずのジャンプが、今では、失敗の確率が上がっている。しかし、かつてのイメージも残っているから、試合で思うように飛べないと、どんどん追いつめられていく。
浅田真央は、15才でしかありえない形で、完璧である。この浅田真央は、今しか見ることができないことは間違いない。私は、彼女が別の形で進化できればよいと思いつつも、安藤美姫が苦しんでいるように、今の彼女を彼女自身が乗り越えることができないかもしれないと思いながら見ている。そういう意味で、浅田真央の将来もスリリングである。いつか、あの時の浅田真央は、ほんとうにかわいらしかったのだよ、と言ってみたいために彼女の今の姿を目に焼き付けなければ、という気持ちもある。
そういった視線で彼女たちの演技を見ている自分は、残酷な楽しみを味わっているのだなと思う。
それはそうと、純粋なスケーティングという意味では、日本の女子の選手では荒川静香が好きなので、彼女がグランプリ・ファイナルに出場できなかったのは残念だった。