伝統と進取、小唄のレコード

藤原正彦国家の品格」(新潮新書 ISBN:4106101416)のことについて続きを書こうと思っていたけれど、心が汚れそうだからやめにした。
今日、会社の行き帰りに「九鬼周造随筆集」(岩波文庫 ISBN:400331462X)を読んでいたら、その知性と趣味の高さに心が洗われた。
いつものように引用しようと思う。しかし、文章に無駄が無く、部分的に引用することが難しい。著作権という意味では問題はあるけれど、「伝統と進取」という随筆を書き写したいと思う。

ひたすら伝統の匂いをかいで足れりとする者であるかのような非難を私は近頃うけた。これは馬鹿げた非難だと一口でいってしまえばそれまでのことであるが、また考えようによってはいい機会でもあるから、果たしてこの非難が当たっているかどうかを、私は出来るだけ客観的に自分について調べてみたいと思う。
この非難は二つの事項を含んでいる。ひたすら伝統の匂いをかぐというのが一つであり、それだけで足れりとするというのがもう一つである。まず第二の点から考察していこう。私が伝統を固守をもって足れりとする者でないことは私自身にはあまりにも明白なことである。私は西洋文化からも大いに学ぶべきところのあることを堅く信じている者で、私の生活の一半は西洋文化の学習に捧げているようなものである。故国の文化はますます肥っていかなければならない。そのためには外国の新しいものの長を採っていなければならない。このことはあまりに解りきった平凡なことで今日となってはことさら主張するのも可笑しいほどである。単に学術や技術の上のみならず芸術や道徳の領域にあっても色々と西洋から学ぶべきところのあることを私は深く信じている。日本人がともすれば自惚れがちで世界のどこに比してもすべての点で遜色ないもののように考えるのは甚だ間違っていると私は思う。我々は色々の点で新規なものを取り入れて進んでゆかなければならない。私は伝統の固守をもって足れりとする者では決してない。
次に第一に挙げた点、すなわち私がひたすら伝統の匂いをかぐということはどうであるか。この点は私は全面的に是認するものである。私が『「いき」の構造』を書いていた頃はマルクス主義全盛の頃で、私は四面楚歌の感があった。数年経って「外来語所感」を発表したこのごろは、外囲の事情が全く反対になってしまって、ある読者には私が現時流行の日本主義に阿諛苟合するかのような感を与えたかも知れない。『「いき」の構造』から「外来語所感」に至るまで私にあっては同一の信念の同一の流れである。変化したのは外囲の事情である。
私はひたすら伝統の匂いをかぐ者である。しかし伝統への私の愛着は「匂いをかぐ」というようなほのかなものでは決してないことも事実である。

どんな言葉を付け加えても、文字通りの蛇足になってしまう。
それでは、九鬼周造の「伝統への愛着」はどのようなものだったか。「小唄のレコード」という随筆を引用したい。

「小唄を聴いているとなんにもどうでもかまわないという気になってしまう」
と女史がいった。私はその言葉に心の底から共鳴して、
「私もほんとうにそのとおりに思う。こういうものを聴くとなにもどうでもよくなる」
といった。すると無極氏は喜びを満面にあらわして、
「今まであなたはそういうことをいわなかったではないか」
と私に詰るようにいった。……
「我々がふだん苦にしていることなどはみんなつまらないことばかりなのだ」
……
私は端唄や小唄を聞くと全人格を根底から震撼するとでもいうような迫力を感じることが多い。……自分に属して価値があるように思われていたあれだのこれだのを悉く失ってもいささかも悔しくないという気持ちになる。ただ情感の世界にだけ住みたいという気持ちになる。

何かを愛する、ということは、こういうことなのだと思う。伝統に愛着を持つということは、その伝統が外国に比べて優れているからなどという理由でもなく、また、それが国家の品格にかかわるからという理由でもなく、愛しているから愛しているのだ。