作文の教育、学習

日本語の教育、学習について、いくつかウェブログでのエントリーを見かけた。いくつかのレベルの問題が混同されているように思える。ここでは、日本語の教育、学習のなかでも、母国語話者の作文に限って話を進めていきたい。
作文能力を習得するためには、母国語であっても、意識的なトレーニングが必要なのは間違いない。また、作文の能力を高めるためには、母国語であっても外国語であっても、基本的には、インプットとアウトプットを増やし、アウトプットについては自分で見直し、他の人からフィードバックを受けることにつきると思う。そのことには、あまり議論の余地はないと思う。
しかし、教育、学習の目標は人によって違うだろう。どのような文章を書く能力を習得することを目標とするのか、そもそも、作文能力を高めることが必要なのか。個人の立場から作文能力について考えるのか、社会として、組織としてその構成員の作文能力を考えるのか。
また、作文の教育、学習も、学校という場で行うのか、自習するのか、それとも、社会教育、学習として行うのかによって違ってくるだろう。さらに、教育、学習の目的、学習の場によっても、どのようなインプットをすべきかが異なってくるだろう。
作文の教育、学習について論じるときに、どのような条件を前提としているかが共有されなければ、議論はすれ違うばかりだろう。
私自身、作文の教育、学習について何が正解かわからないけれど、ケーススタディとして、二つの話を書きたいと思う。
私の父方の祖母は、もし、今生きていればもうそろそろ百歳になるはずの年齢だった。祖父がやや浮世離れしていたこともあって、家の切り回しは祖母が一手に担っており、実際的な能力は非常に高くて、知的な人だった印象がある。彼女は幼少の頃、かなり苦労をしていたという話は聞いたことがある。具体的にどのような教育を受けていたかは知らない。自分には、祖母が新聞を読み、本を読んでいた姿を見たという記憶がまったくない。彼女が、ちょっとした手紙以上のまとまった文章を書いていた様子もない。正確なところはわからないけれど、彼女は読み書きがあまりできなかったのではないかと考えている。しかし、それが彼女の人生の上での大きな障害になったとは思えないし、また、彼女が知的能力に欠けていたわけでもない。
自分自身の作文の教育、学習で、何が効果的だったか振り返ってみると、よくわからないのが正直なところだ。小学校の頃に受けていた作文教育は、かなり熱心で、すぐれたものだったらしいが、ほとんど記憶していないから、何がよかったのか解らない。書く、ということに自覚的になったのは、就職してからだと思う。特に、プロジェクトリーダーとなって、人の書いた文章に朱をいれるようになってから、自分の文章についても客観的に読むことができるようになり、改善しなければならないと思うようになった。
第二言語を習得することを思い起こしてみると、インプットしたことがない文章をアウトプットすることは難しい。それと同じで、母国語であっても、インプットしたことのない文章をアウトプットすることは難しいだろう。だから、さまざまな文章をインプットすること、つまり、読むことは、自分の手持ちの表現の幅を広げるいみで重要であると思う。自分の場合、インプットについては、あまり意識的に努力をしたことはないけれど、文章を読むことは好きだったから、自然に習得することができたとだろうと思う。
しかし、自分の書いた文章を客観的に見直すことができるようになったのは、先に書いたように、自分が他の人の文章に手を入れるようになってからだ。そして、これに自覚的になるようになってから、文章が改善されてきたように思う。
考えがまとまっていないから今日の文章に結論はない。ただ、あまりに単純化された議論には意味がないように思う。