朱を入れる

昨日書いた「作文の教育、学習」(id:yagian:20060205:1139146276)に、「続・航海日誌(2006/2/6)」(http://www.seri.sakura.ne.jp/~branch/diary0602.shtml)からリンクが張られていた。
ここは、それほどアクセスがあるわけでもなく、コンスタントに更新しているわけでもなく、ごく限られた固定した読者がひっそりと読んでいるウェブログだから、リンクがはられていたことにずいぶん驚いた。なんにせよ、共感してもらえるということはうれしいことである。
昨日の日記は、結論がない中途半端なものだったが、リンク先では、人の文章に朱を入れるようになって、自分の文章も客観的に見るようになった、ということに同感したと書かれていた。そこで、今日は、人の文章に朱を入れるという経験を切り口にして、文章を書くことについてもう少し考えを進めてみたいと思う。しかし、今日もまだ、結論まで行き着くことな難しいと思う。
文章を添削していると、あまり手を入れる必要がない人と、元の文章が跡形もなくなるぐらい真っ赤になってしまう人がいる。時間がない時は自分で朱をいれて機械的に修正してもらうけれど、時間がある時は書いた人と話し合いながら修文を決める。話し合った方がよりよい修正にたどり着けるということもあるし、自分自身で修正できるようになるための指導を兼ねていることもある。そして、文章からは何を言いたいのか推測すらできないため、書いた本人に意図を確認する必要があることもある。
文章が真っ赤になってしまう人と話し合う時、相手の反応にいくつかのパターンがある。
文章を読むと何が言いたいのかわからないけれど、話し合ってみると、きちんと考えていることがわかるという人もいる。相手の話を聞きながらこちらが文章をまとめると、悪くないものができる。しかし、相手は、自分が書いた文章と、こちらがまとめた文章の違いがよくわかっていない様子である。
よく理解できない文章の意図を尋ねると、怒ったように「書いた通りです」と答える人もいる。意図がわからないから尋ねているのだから、「書いたとおりです」と答えられてしまうと、話が進展しない。二人の間に重苦しい沈黙が流れることになる。
また、ある文章を書いた意図を尋ねても、さっぱり反応が返ってこない人もいる。あまり考えなしになんとなく文章を書いているのか、それとも、答えたくないのかよくわからない。結局、こちらから修文案を持ち出すと、反論をすることもなく、すべてそのまま受け入れてしまう。
一方、あまり朱を入れる必要がない人と話し合う時は簡単である。文章の意図を尋ねると、明快に解説してくれる。わかりにくい部分について、その理由を説明すれば、向こうから修文案を考えてくれて、それが適切である。反論をすることもあり、お互いの考えを深めることができる。そもそも、文章表現については議論すべきところが少なく、文章の内容について議論をすることができる。
文章が書けない人のなかにも、いくつかの「症状」があって、「症状」によって「病因」が異なり、「治療」の方法を変えなければならないように思う。
書きたい内容について語ることはできても、それをうまく文章化することができない人は、読解の能力に問題があるように思う。自分の書いた文章を読み返した時、自分の意図したことが表現されているかどうか、きちんと読解できていないのではないか。文章が書ける人であっても、最初から完璧な文章が書けるわけではないだろう。自分で読み直した時、問題がある部分を発見でき、修正することができる。その時に、読解の能力が求められる。
「書いたとおりです」と答える人は、読解の能力に問題があるだけではなく、パラフレーズ、言い換えの能力に問題があるのではないか。自分の表現が相手に理解されないとき、パラフレーズ、言い換えをしながら、相手の理解を獲得することは、コミュニケーションの基本的な方法の一つだろう。
反応がない人は、何が問題なのだろうか。反応が乏しいと、問題の所在すらも想像することが難しい。作文以前のコミュニケーション能力に問題があるのかもしれない。
読解力を高めるため、言い換えの能力を高めるため、そして、基礎的なコミュニケーション能力を高めるには、どのようにすればよいのだろうか。
また、考えてみたい。