近代化と国学

昨日の日記(id:yagian:20060314)で、柳宗悦の「ものの見方」は、坪内逍遙が目指した近代小説の書き方と同じ構造をしており、柳宗悦の「民芸」は近代化の所産だろう、ということを、前田愛「増補文学テクスト入門」(ちくま学芸文庫 ISBN:448008953)を参考にしながら書いた。前田愛によれば、江戸時代の文芸はプレテクストのモザイクである博物誌的な方法によっており、坪内逍遙が目指した近代小説はプレテクストを排除しものの形をニュートラルに記述する博物学的な方法によっているという。この関係は、銘や箱書といったプレテクストを通して器を見る在来の茶道と、「ただ見る」ということを主張する柳宗悦の民芸の関係と並行している。この博物学的な方法が、近代化とともに日本にもたらされたものであれば、柳宗悦の民芸も、西洋を通じた近代化によってもたらされたものだといえるだろう。
実は、この続きとして、正岡子規も、同じような転換を和歌や俳句の世界に持ち込んだのではないかということを書こうと考えていた。そのため、出張に、わざわざ正岡子規歌よみに与ふる書」(岩波文庫 ISBN:4003101367)を持ってきて、例によって引用しようと考えていた。
昨日の日記の前半部分は、飛行機の中で書き、ホテルに着いてから後半部分を書こうと思ったら、「歌よみに与ふる書」をどこかに忘れてきたことに気がついた。そのため、昨日は、正岡子規に関する後半部分を書くことができなかった。
今日、飛行場で、岩波文庫の忘れ物はないかと尋ねたところ、ぶじ、忘れ物が届いていた。ありがたい(飛行場の職員に、「歌よみに与ふる書」という本を忘れたというのが、なんとなく恥ずかしくて、「岩波文庫の忘れ物はありませんか」と尋ねてしまった)。そんなわけで、昨日の日記の続きを、帰りの飛行機の中で書こうと思う。
柳宗悦は、銘や箱書を大事とする茶道家を批判する一方で、千利休のような茶道を作り上げた人々は高く評価する。彼らは、銘や箱書なしに、自分の眼で、日常使いの雑器のなかから名器を見いだした、というのが理由である。
歌よみに与ふる書」で正岡子規は、小気味よく在来のうたよみとその価値観を批判する。その一方で、万葉集を高く評価する。その主張は、柳宗悦の主張と同じ構造になっているように思う。それでは、正岡子規の批判を引用してみよう。

 貫之は下手な歌よみにて『古今集』はくだらぬ集に有之候。その貫之や『古今集』を崇拝するは誠に気の知れぬことなどと申すものの、実はかく申す生も数年までは『古今集』崇拝の一人にて候ひしかば、今日世人が『古今集』を崇拝する気味合いは能く存申候。崇拝してゐる間は誠に歌といふものは優美にて『古今集』は殊にその粋を抜きたる者とのみ存候ひしも、三年の恋一朝にさめて見れば、あんな意気地のない女に今までばかされてをつた事かと、くやしくも腹立たしく相成候。先づ『古今集』といふ書を取りて第一枚を開くと直ちに「去年とやいはん今年とやいはん」といふ歌が出て来る、実に呆れ返つた無趣味の歌に有之候。日本人と外国人との合の子を日本人とや申さん外国人とや申さんとしやれたると同じ事にて、しやれにもならぬつまらぬ歌に候。この外の歌とても大同小異にて駄洒落か理窟ツぽい者のみに有之候。それでも強ひて『古今集』をほめて言はば、つまらぬ歌ながら万葉以外に一風を成したる処は取得にて、如何なる者にても始めての者は珍しく覚え申候。ただこれを真似るをのみ芸とする後世の奴こそ気が知れぬ奴には候なれ。それも十年か二十年の事ならともかくも、二百年たつても三百年たつてもその糟粕を嘗めてをる不見識には驚き入候。何代集の彼ン代集のと申しても、皆古今の糟粕の糟粕の糟粕ばかりに御座候。

書かれている中身はともかく、罵倒のしかたがストレートで、いきなり核心を衝いており、ある意味さわやかですらある。自分には、こんな風に罵倒する勇気はない(例えば、「遼太郎は下手な作家にて『坂の上の雲』はくだらぬ小説に有之候」だなんて)。その一点だけでも、正岡子規を尊敬してしまう。
伝統的な和歌の世界では、かつて詠まれた歌をふまえて歌を詠む。正岡子規は、その点を悪しざまに「糟粕の糟粕の糟粕ばかり」と言っているが、このようなプレテクストの蒐集による博物誌的な方法こそが伝統的な和歌の本質である。プレテクストに依拠して作られた歌は、「駄洒落か理窟ツぽい者」になってしまうのも自然である。その点を、正岡子規は厳しく批判する。
プレテクストに依拠することを避けようとすれば、和歌の源流、万葉集までさかのぼることになる。プレテクストがない、そもそもの出発点に立ち戻れば、プレテクストに汚されていない和歌が発見できるというわけだ。これは、まさに、柳宗悦が最初期の茶人たちを評価するのと同じ考え方である。
と、ここまで、前近代である江戸時代までの文芸が、明治以降、西洋からの影響によって、近代的な価値観によって読み替えられる作業が進められた、というストーリーで書き進めてきた。しかし、そのことは間違えではないにせよ、これも単純化しすぎているようにも思う。日本の近代化は明治時代に入ってから急速に進んだにせよ、江戸時代にも近代的な思想、価値観が生まれ、普及しており、そのことが、明治時代の近代化の基礎となっているように思えるからである。
そういう意味で、国学のことが気にかかっている。国学は、一見、極めて復古的な思想に見えるけれど、根底には近代的な発想があるように思う。本居宣長の「からごころ」や「さかしら」を否定し、「やまとごころ」を万葉集古事記に見ようとする考え方は、源流にこそプレテクストにけがされていないものがあるとする正岡子規と同じ見方である。国学についてはほとんど知らないため、このような発想がどこから生まれてきたのかわからないけれど、非常に興味深く思う。よく知らないけれども、この時代、プレテクストを廃して、原典を重視するという考え方は、国学に限らず、儒学にもあり、もちろん、蘭学の基礎には近代的な考え方があるはずだ。
明治時代、中国や朝鮮と異なり、日本ではいちはやくナショナリズムを普及させることに成功して、国民国家を作り上げることができた。島崎藤村「夜明け前」(岩波文庫 ISBN:4003102428)を読むと、国学島崎藤村の父親にナショナリズムに目覚めさせる契機となったことがよくわかる。西洋からの思想の輸入だけではなく、国学ナショナリズムの下地を作っていたことが、明治時代の日本の国民国家形成に大きな役割を果たしているのだろう。
そういった意味でも、国学の源流はどこにあるのか、また、国学と近代化の関係はどうなっているのか、中国や朝鮮では国学に相当する思想、運動はあったのか、ということが興味をそそる。
また、天皇制を中心としたナショナリズム国家神道国学は切り離せない関係にある。今、話題となっている皇室典範の問題、靖国神社の問題を考える上で、国学の成立過程ということを考えることで手がかりが得られるのではないかと思える。