伝統とは

「伝統」とは何か、ということに、ずっと興味を持っているが、なかなかすっきりした答えを出すことができずにいる。
「日本の伝統」の重要性を主張する人に限って、伝統とは何かという問題を深く考えず、自分の都合のよいように伝統ということばを利用することが多いように思う。そのような文章を見るにつけ、その筆者の不誠実さに腹立たしい思いがする。
このウェブログのなかで何度も繰り返し言及して、もうやめようと思わなくもないけれど、典型的な事例で説明がしやすいので、藤原正彦国家の品格」(新潮新書 ISBN:4106101416)を題材にして、「伝統」の利用について説明したい。
藤原正彦は、「国家の品格」のなかで、日本の情緒、倫理の重要性を指摘する。日本の情緒について、いくつかの具体例をあげているが、彼が日本の情緒、倫理のなかでもっとも重要と考えているのは、新渡戸稲造「武士道」(岩波文庫 ISBN:4003311817)である。
新渡戸稲造の「武士道」には、なかなかいいことも書かれていると思うから、これを倫理の基礎におくべし、という主張であれば、それは一つの意見、見識であると思う。しかし、新渡戸稲造の「武士道」は、日本の情緒、倫理を代表するものでは決してない。「武士道」が日本の標準的な倫理だった時代はないし、新渡戸稲造の「武士道」は、「武士道」そのものとはかけ離れている。そのことは、さほど調べものをしなくてもすぐわかることだ。それを、あたかも日本の情緒、倫理の中心にあるものとして主張することは、無知や短絡でなければ、欺瞞である。藤原正彦は、日本の情緒、倫理それ自体について、ほんとうのところはさほど興味、関心がないのではないかと疑いを感じる。日本の情緒、倫理それ自体がどのようなものであるか、ということよりも、彼自身が好む新渡戸稲造の「武士道」を、さも日本の情緒、倫理の代表であるかのごとく主張することの方を、大切に思っているのではないか。率直に言って、そのような人が書いた日本の情緒、倫理に関する主張をまともに読む気にはなれない。
日本の伝統に含まれる要素はじつに多様である。時代によってさまざまに変遷をしているし、海外からも多様な文化、文物が流入していて、その系譜も複雑である。地方ごとにも伝統、文化の特色はことなり、社会階層によっても相違が大きい。「日本の伝統」について語るとき、極端にいえば、多様な伝統からどの要素を選ぶかによって、どのような「日本の伝統」像を作り上げることが可能である。
どれだけ慎重になっても、日本の伝統のすべての要素をくまなく網羅することはできないし、なんらかの立場に立たなければ、筋の通った文章を書くことはできない。だから、どのような「日本の伝統」論も、筆者の「偏見」から逃れることはできない。しかし、そのような「偏見」を持っているということを自覚して書くことと、無自覚で書くことの差は大きいと思う。
伝統のことを考えながら、ひさしぶりに井上章一「つくられた桂離宮神話」(講談社学芸文庫 ISBN:4061592645)を読み返してみた。じつにおもしろい本である。
井上章一によると、建築界のなかには、「桂離宮神話」とも呼ぶべきものがあり、桂離宮を批判することが難しい状況にあり、「桂離宮神話」と呼べるほど桂離宮の評価が高まったのは、1930年代に、ブルーノ・タウト桂離宮を絶賛したことが契機となっていると語られているという。井上章一は、桂離宮をめぐる文献を探索し、この「桂離宮神話」が作られた経緯を調べている。その結果、ブルーノ・タウト桂離宮を絶賛する直前から、モダニズム建築を進める若手建築家が、桂離宮を合理的で簡素で、モダニズム建築と共通するものとして高い評価を与えていることを発見する。つまり、桂離宮の評価が高まったのは、モダニズム建築家たちがブルーノ・タウトを巻き込んだ運動の結果だというのだ。
桂離宮に限らず、伝統的な素材を使って、なにか主張の権威付けをするということはよくある。