洞察、確信、共感

おとといの日記(id:yagian:20060325:1143275676)で、エドマンド・リーチの「社会人類学案内」(岩波現代ライブラリー ISBN:4002600653)を取りあげた。
学生の頃、文化人類学の教室に籍を置いていた。当時は、落ちこぼれ学生だったし、卒業してからずいぶん時間が経っている。それでも、文化人類学社会人類学の本を読むと、考え方がすっとあたまに入ってくる。
大学生の頃は、それがあたりまえと思っていた人類学的な考え方も、今では、とっぴに感じる人の方が多いということもわかっている。なぜ、ある人は人類学の考え方に共感できず、そして、自分は人類学の考え方に共感できるのだろうか、と不思議に思う。
例えば、「社会人類学案内」のこんな一節を読むと、ああ、そうだよなぁと同感する。

……彼ら(yagian註:人類学者のこと)やろうとしていることは、人間生活の中でも規模の小さい実例を観察することによって、(人類学者を含む)すべての人間に一般的に妥当するような洞察に達することである。

一つの分野、一つの事例、全体ではなく細部を、深く突き詰めて観察することで、急に普遍的な真実のようなものに到達することがある。
例えば、自分とはかかわりのないような一人の人物のことを描いている小説を読んでいて、深く共感することがある。そのような体験はごくまれにしかないけれども、そんな小説は、リーチがいう「洞察」に達しているのではないかと思う。
村上春樹「ねじまき鳥のクロニクル」(新潮文庫 ISBN:4101001413)を読むと、心の奥から、激しい動揺を感じる。言葉ではうまく説明できないけれども、この小説にはたしかになにかの「洞察」があると感じる。
こういった体験、こういった共感とは、いったい何なのだろうか、とまたもや不思議に思うのである。
自分は、これだけ深く確信が持てる。しかし、その確信はうまく説明できない。説明できないからこそ、確信が深いようにも思う。そして、その確信を共有できる人たちがいる以上、自分一人の思いこみでもないようである。にもかかわらず、この確信を共有できない人もいる。
この確信、この共感は、何が基礎となっているのだろうか。