本質と変化

どうも最近、できの悪い哲学めいた日記が続いている。
結城さんに、以前書いた日記(http://d.hatena.ne.jp/yagian/20060323/1143098847)を敷衍して(http://www.hyuki.com/d/200603.html#i20060324)してもらった。そこで、伝統と変化の関係について、このように書かれていた。

時代に合わせて変化することができなければ、時代に合わなくなり生き残らない。かといって時代に合わせてばかりいて伝統を失ってしまえば、たとえ生き残ったとしても「それ」は「それ」ではなくなる。伝統と変化のバランスを保つことができなければ、どんなものも消え失せてしまうだろう。

「「それ」は「それ」でなくなる」とは、いいかえれば「本質を失ってしまう」ということだろう。しかし、失うと「「それ」は「それ」でなくなる」本質とはなんだろうか。ほんとうに、そのような「本質」がじっさいに存在するのだろうか。
昨日の日記で書いた(id:yagian:20060326:1143375411)ように、森鴎外にならっていえば、「本質」が存在するわけではなく、「本質」も「かのうように」の一種ではないか。
天皇制にせよ、キリスト教にせよ、起源から現在まで、変わらぬ「本質」を維持し続けてきたといえるのか疑問に思う。その時代、時代で、天皇制はかくあるもの、キリスト教はかくあるものという解釈がなされてきた。その解釈の変遷を見ていけば、「本質」が変わりなく伝えられたわけではない、ことが明らかになるのではないか。
同じことは、「自分」という存在にも当てはまるように思う。ある瞬間を捉えれば、自分とはかくあるものという認識、アイデンティティはある。しかし、その自分に対する認識、アイデンティティも、時間が経れば変化していく。自分に対する一貫した認識、アイデンティティなどはない。そうだとすれば、「自分」やアイデンティティというものも、「かのうように」の一種といえるのではないか。
そして、ここで、今日の最初の日記「洞察、確信、共感」に話がつながる。
理性的には、「自分」という存在も、一種の「かのように」、つまり、実態のない虚像、仮説的な存在だと思う。しかし、言葉では説明できないある種の深い共感や確信は、自分に対して「かのように」を超えた確かな実感、手ざわりを感じさせるのである。
デカルトは「考える故に我あり」と言うけれど、考えることを突き詰めると、逆に「自分」という存在の不確かさに行き着くように思う。考えることではなく、言葉にできない情動にこそ、より確かな「自分」というものを感じる。