じいさんばあさん

森鴎外「かのように」(「阿部一族舞姫」所収(新潮文庫 ISBN:4101020043))について書いた日記(id:yagian:20060326:1143375411)に、稲本(id:yinamoto)が付けてくれたコメントに返事を書くため、「かのように」を読み返そうとしたら、鴎外の小説がおもしろく、結局、「阿部一族舞姫」を全部読むことになってしまった。
鴎外の小説の紹介に、ネタバレもなにもないのかもしれないけれど、この小説は、結末を知らないで読んだ方がよりおもしろいかと思うので、ネタバレを避けて書く。
まず、この小説でいちばん好きなところを、いつものように引用してみる。

 爺さんが隠居所に這入ってから二三日立つと、そこへ婆さんが一人来て同居した。それも真白な髪を小さな丸髷に結っていて、爺さんに負けぬように品格が好い。それまでは久右衛門方の勝手から膳を運んでいたのに、婆さんが来て、爺さんと自分との食べるものを、子供がまま事をするような工合に拵えることになった。
 この翁おん二人の中の好いことは無類である。近所のものは、若しあれが若い男女であったら、どうも平気で見ていることが出来まいなどと云った。中には、あれは夫婦ではあるまい、兄妹だろうと云うものもあった。その理由とする所を聞けば、あの二人は隔てのない中に礼儀があって、夫婦にしては、少し遠慮をし過ぎているようだと云うのである。
 二人は富裕とは見えない。しかし不自由はせぬらしく、又久右衛門に累を及ぼすような事もないらしい。殊に婆さんの方は、跡から大分荷物が来て、衣類なんぞは立派な物を持っているようである。荷物が来てから間もなく、誰が言い出したか、あの婆さんは御殿女中をしたものだと云う噂が、近所に広まった。
 二人の生活はいかにも隠居らしい、気楽な生活である。爺さんは眼鏡を掛けて本を読む。細字で日記を附ける。毎日同じ時刻に刀剣に打粉を打って拭く。体を極めて木刀を揮る。婆さんは例のまま事の真似をして、その隙には爺さんの傍に来て団扇であおぐ。もう時候がそろそろ暑くなる頃だからである。婆さんが暫くあおぐうちに、爺さんは読みさした本を置いて話をし出す。二人はさも楽しそうに話すのである。

老後はこんな生活ができたらいいなとしみじみ思わせる、そんな文章である。「二人はさも楽しそうに話すのである。」というところがいい。「かのように」のこの文章を読んで、老後このような生活を築き上げることを人生の目標にしている。
しかし、鴎外の実際の生活は、「じいさんばあさん」とはかけ離れていた。この婆さんの若かった頃について、次のようにように書かれている。

 るんは美人と云う性の女ではない。若し床の間の置物のような物を美人としたら、るんは調法に出来た器具のような物であろう。体格が好く、押出しが立派で、それで目から鼻に抜けるように賢く、いつでもぼんやり手を明けていると云うことがない。顔も顴骨が稍出張っているのが疵であるが、眉や目の間に才気が溢れて見える。……るんはひどく夫を好いて、手に据えるように大切にし、七十八歳になる夫の祖母にも、血を分けたものも及ばぬ程やさしくするので、伊織は好い女房を持ったと思って満足した。

鴎外自身は器量好みで、彼の二人目の妻志げは「すごいような美人」だったといい、嫁と姑の関係は最悪だった。るんのように、妻が夫を大切にする、というよりは、鴎外が妻を「床の間の置物」のように大切にしていたという印象が強い。
るんの個性は、鴎外の妻よりは、「渋江抽斎」(岩波文庫 ISBN:4003100581)のなかで理想的な賢妻として描かれている五百を思い起こさせる。この「じいさんばあさん」を書いたときには、まだ、鴎外は五百のことは知らなかったはずだ。鴎外は、渋江抽斎の妻五百を発見する前に、すでに理想の妻の像としてのるんを作り上げていた。
器量好みで妻を選んだ鴎外は、結婚生活のなかで、実はるんや五百のような妻がよかったと後悔していたのだろうか。