「日の名残り」と「もののあわれを知るこころ」

<注意>今日の日記には、小説、映画「日の名残り」の内容について書かれています。

大学のとき、イギリス人の先生が担当していた現代イギリス小説のアンソロジーを読むクラスをとった。クラスで取りあげたアンソロジーのなかに、カズオ・イシグロの短編小説があった。その小説の内容はさっぱり覚えていないけれど、そのクラスを担当していた先生が、ちょうど「日の名残り」(中公文庫 ISBN:4122020638)がブッカー賞を取って話題になっていたカズオ・イシグロに会い、彼がまったく日本語をしゃべれないことがわかったという話をしていたことだけは覚えている。そのクラスが印象に残っていたこともあって、「日の名残り」は、小説も読み、映画も見ている。いい小説、映画だと思ったけれど、そのときは、それ以上のこともなかった。
さしたるきっかけがあったわけではないが、ふと、「日の名残り」を見返してみようと思い、DVDをレンタルをした。今回は、はじめからおわりまで、ずっと身につまされて、見ているのが苦しいほどだった。アンソニー・ホプキンスが演じる執事のスティーブンスとエマ・トンプソンが演じるミス・ケントンの二人だけではなく、スティーブンスの父のスティーブンス・シニアの衰え、善意が裏目にでてしまうダーリントン卿、ミス・ケントンの夫で甲斐性がないベンにも共感した。結局、彼らのすべてが苦い人生の結末を迎える。その苦さ、苦しさが、そのまま伝わってきて、同じような気持ちになる。登場人物の行動を批判的に見たり、映画を批評的に見たりするのではなく、登場人物が感じている苦さをそのまま感じていた。
本居宣長のいう「もののあわれを知る心」というのは、こういうことなのだろうか。歳をとり、自分も多少は成長しているのかもしれないと思った。