もののあわれ

稲本のウェブログの「頭の中の写真」という記事(id:yinamoto:20060404)のなかで、こんなことが書いてあった。

人についてもそうだが、愛情というのは、必ずしも相手が優秀だとか、利点があるから抱くものではない。

まったくその通りだと思う。
昨日、映画「日の名残り」を見た話(id:yagian:20060404:1144149933)を書いた。この映画のなかでいちばん印象的だったのは、執事のスティーブンスが、親ナチ派としてすっかり名誉を失い、失意のうちに死んでいったかつての主人のダーリントン卿について人から聞かれて、ペテロがイエスのことを知らないと言ったように、そのような人は知らないと答えた場面である。その後、思い直したスティーブンスは、実はかつてダーリントン卿に仕えており、彼は尊敬すべき人物だったと言う。
スティーブンスは、ダーリントン卿のことを敬愛している。しかし、さまざまに苦い思いをしてきた今では、かつてのように、ダーリントン卿のことを、無心に賛美することはできない。ダーリントン卿のことを知らないと言ってしまうこともある。それでも、やはり、スティーブンスは、ダーリントン卿のことを敬愛し続けているのだと思う。
「愛情というのは、必ずしも相手が優秀だとか、利点があるから抱くものではない。」そして、愛情というものも、相手に対する肯定的な気持ちだけから成り立っているわけではない。名誉が失われた後のダーリントン卿へのスティーブンスの気持ちの方が、より複雑である。その気持ちを想像していると、私も重く、暗く、渋く、そして、深くて甘い気持ちになる。
ここで、ここ数日くりかえし取り上げている本居宣長に話をつなげる。子安宣邦本居宣長とは誰か」(平凡社新書 isbn:4582852971)からの孫引きで、「石上私淑言」を引用する。

さてかくのごとく阿波礼(あはれ)といふ言葉は、さまざまいひ方は変わりたれども、その意はみな同じことにて、見る物、聞くこと、なすわざにふれて、情の深く感ずることをいふなり。俗にはただ悲哀のみあはれと心得たれども、さにあらず。すべてうれしくともをかしとも楽しみとも悲しとも恋しとも、情に感ずることはみな阿波礼なり。

さて、このように「あわれ」という言葉は、さまざまにいい方が変わったけれど、その意味はすべて同じで、見るもの、聞くもの、なにかの行動にふれて、心に深く感じることを言うのだ。一般には、悲哀だけをもののあわれだと考えられているけれど、そうではない。よろこび、たのしみ、かなしみ、こいしさ、心に感じることのすべてが「あわれ」である。
スティーブンスのダーリントン卿への、さまざまな感情が入り交じった複雑な気持ちは、この「もののあわれ」なのだろう。