天皇という人間

しばらく前、「天皇を巡る伝統と変化」というタイトルで日記を書いたら(id:yagian:20060323:1143098847)、こんなコメントの書き込みがあった。

まず、皇太子夫婦が一般家庭を望まれるのなら皇室を出るべきだと思います。
日本の伝統を守り続ける責務が個人としてよりも立場としての自覚が夫婦共に全くありません!
そんな彼らに税金を使われるのは、許せません。

「そんな彼らに税金を使われるのは、許せません。」とは、皇太子夫妻すらも国民の公僕たる役人と同じく使用人扱いされてしまっている。「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」という精神が一般の人たちに定着していると見ることもできなくもないが、今の皇室の方々は、こんなことを言われてしまい、ほんとうに大変だと同情する。
さて、例によって、本居宣長を引用しよう。今日は、中島誠「For Beginners 本居宣長」(現代書館 ISBN:4768400752)からの孫引きで、「葛花」のなかの言葉である。

君は本より真に尊し、その貴きは徳にあらず、もはら種によれる事にて、下にいかほど徳ある人あれ共、かはることあたはざれば、萬々年の末の末の代までも、君臣の位動くことなく厳然たり

君主はそもそもほんとうに尊く、その貴さは徳にあるのではなく、もっぱら「種」によることであり、臣下にどれほど徳のある人がいても、かわることはできないから、永遠に君主と臣下の位は厳然として動くことはない。
本居宣長らしい、ラディカルな言葉である。中国では、天命が失われれば、革命によって王朝が交代するという観念がある。しかし、日本の天皇は種、すなわち血統で決まり、徳が低いとしても「君臣の位が動くこと」はない。
大日本帝国憲法では、天皇天皇であるかということの根拠について、理由を説明することはしていない。第一条で、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とされ、第二条に「皇位皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス」とされ、 第三条に「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」とされている。つまり、天皇は、万世一系で皇男子孫によって継承されきた神聖な存在であるという。なにゆえ、その種が神聖なのかは説明されていない。前提抜きで、天皇は神聖だから神聖なのだという。
一方、日本国憲法では、第一条で「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」とし、第二条で「皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。」としている。天皇天皇である根拠は、国民の総意にあり、誰が天皇になるかは世襲で決められることとされている。
つまり、大日本国憲法では、天皇の根拠は前提抜きの「種」の神聖さに求められている。本居宣長の言葉と同じ考え方である。日本国憲法では、その「種」の根拠に「国民の総意」が挿入されているところが異なっている。
最近、天皇制をめぐってさまざまな発言、主張があるけれど、私は、福田和也美智子皇后と雅子妃」(文春新書 isbn:416660466X)が、現在の皇室に対する洞察がいちばん深いように思っている。そのなかに、このように書かれている。

 近代における皇室のあり方が、一つの臨界点を迎えているのは、否定できないことである。
 維新政府は、それまで御所の奥、女官たちに囲まれていた天子を、公衆の中に引き出し、軍服を着せて白馬にまたがらせることで、近代国家を建設した。国民の前に姿を現した明治天皇は、身を削るような献身によって、若く貧しい国をかろうじて支えた。
 敗戦の危機に際して、昭和天皇とその腹心たちは、皇室を近代化し、国民的親近感を涵養することを試みた。明仁親王の英語教師としてバイニング夫人をアメリカから招いたのにはじまり、民間から妃選びまでの潜在的なイニシアティブは、昭和天皇にあったと見るべきだろう。
 昭和天皇の企図は成功を収めたが、そのために大きな犠牲を美智子妃は払うことになり、さらに犠牲は皇太子に及び、最後に雅子妃に及んだ。皇太子にとって、もっともやりきれないのは、この呪縛の連鎖が、さらに下の世代に続いていきかねないことだったろう。
 だた、この連鎖を断ちきるためには、明治以来の皇室のあり方自体の、再検討が避けられない。皇室が今のまま、つまり衆人環視のもとでの、国民的好奇心のなかで消費される存在であるかぎり、美智子さまの生きた二律背反を、生き続けるしかない。
 母との黙契を維持すること。妻を守りつづけるという誓いを果たすこと。この二つが両立出来ない、そんな場所に皇太子殿下は今、立っている。

冒頭に引用した、皇太子夫妻への批判は、重い意味を持っていると思う。皇太子は、「国民の総意」によって天皇となる義務を負わされているなかで、普通の家庭を築くことを望んでいる。皇太子を批判しているこの人は、普通の家庭を築くことが許せないと言っている。皇太子は皇太子としての義務を果たすべきだと批判している。しかし、皇太子が皇太子であることは、皇太子の自由になることではなく、「国民の総意」によって皇太子に負わせている義務である。国民が彼の生き方を掣肘する権利があるのだろうか。
皇太子から見れば、自分が皇太子であることは「種」で決められているにもかかわらず、「国民の総意」も得なければならない。その上、現代に生まれ育っているから、皇太子という特殊な存在である以前に、自分が個人、一人の人間であるという自覚もある。これは、実にきびしい立場である。
皇位の継承の問題を考えるとき、男系を守るべきか、双系とすべきか、という点も大きな課題であるけれど、今の矛盾を放置すれば、皇位継承者がこれでは天皇になることができないと言いかねないと思う。そうなれば、天皇制は解体することになるかも知れない。
やはり、皇位継承者だからといって、人間らしく生きることができないという制度は、間違っていると思う。もし、「国民の総意」として、天皇天皇としての義務を負わせているのであれば、彼らが人間らしく生きることができるようにすることが、国民が天皇に負っている義務ではないか。