オーラ

町山智浩のウェブサイトで、村上隆著作権の侵害でナルミヤというこども服のメーカーを訴え、和解に至った顛末を知った(http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20060425)。
町山は、つねづね村上隆に批判的だが、この件に関してもはげしく批判している。町山の主張をかんたんにまとめると、村上隆は他のひとがつくったものをパクって商売をしているのに、自分の作品がパクられるや著作権の侵害で訴えるとは盗人猛々しい、ということになるだろう。
この件に関する村上隆がわの見解は、ここに書かれている(http://www.kaikaikiki.co.jp/news/list/murakamis_lawsuit/)。私は村上隆のファンでもなんでもないけれど、村上隆のDOB君とナルミヤのマウスくんはそっくりそのままで、これは訴えられてもしかたがないと思う。たしかに、村上隆のDOB君はミッキーマウスやそのほかのキャラクターを連想させるけれど、訴えられないように巧みにアレンジされている。そういう意味で、ナルミヤは不用意であり、村上隆はプロの仕事をしていると思う。
ウェブサイトに書かれている村上隆のコメントは噴飯ものだけれど、「これはアートだ」と言い切ることが彼の活動の生命線なのだから、それにいきり立ってもしかたないと思う。たしかに、村上隆が「日本ではアートの社会的評価や理解度は低いままです。功利主義で、文化発展への尊敬の念乏しき,文化の民意が著しく低い国。それが日本です。」と書いているのを読むと、お前にそんなことを言われたくない、という気持ちがわいてくるのは理解できる。しかし、村上隆自身は、自分のこの発言がうさんくさいと思われることもわかった上で発言しているのではないかと思う。だから、彼の発言の真に受けてもしかたないし、ああ、また、あんなことを言っていると思って放置しておけばいい。
それよりも、東浩紀の渦状言論のこの件に関するエントリー(http://www.hirokiazuma.com/archives/000214.html)が印象的だった。東は「このニュースを見て僕のなかでDOB君のオーラが消えてしまった」と書いているが、ずいぶんうぶな人だと思う。消えてしまったDOB君のオーラなどはじめからなかったにちがいない。
東が「彼の活動がきわめてコンセプチュアル」と書いているように、村上隆は作品を完成させることを目的としているのではなく、一連の活動それ自体を目的としている。だから、作品そのものには価値はない。彼の活動と作品の関係は、音楽の演奏と楽譜の関係を考えるとわかりやすいと思う。作品は活動の結果、記録としての楽譜であり、活動そのものである演奏ではない。
村上隆の作品を買ったり、それを飾ったりするという行為は、村上隆の活動に参加するということに意味があり、作品それ自体や作品を所有することに意味はない。なぜならば、作品そのものは価値がないからだ。作品を買い取るときに支払うお金は、作品を所有するための対価ではなく、村上隆の活動に対するお布施のようなものだ。しかし、音楽の演奏と違って、彼の活動は興行として対価を得ることは難しい。だから、モノとしての作品に対して支払うという形式で、対価を得ているのだろう。
東は、かつては、村上隆の活動に共感して、作品を買い、飾るという形で参加していた。しかし、今は、彼の活動に共感できなくなった、というだけのことだ。繰り返すが、はじめから作品にオーラなどはない。かつてはオーラがあったように見え、そしてオーラが失われてしまったように見えたとすれば、東の村上隆の活動への幻想が失われてしまったためであり、抜け殻にすぎない作品にはなんの変化があろうはずはない。