怒りのツボ

昔の日記で、自分のことを「どこかツボにはまると「異様に攻撃的」になることがある。」と書いたことがある(id:yagian:20060202:1138887151)。
村上隆が攻撃的になるツボにはまる人も多いようだが、私のツボにははまらない。それは、村上隆が、自分のうさんくささを自覚してうさんくさいことをしたり、言ったりしているように見えるからだと思う。「わかってやっている」という人に対しては、あまり感情は動かない。
逆に、自分では偉いことをやっていると思いこみながら、そのじつ、くだらないことをしている人は、怒りのツボにはまる。
呉智英犬儒派だもの」(双葉文庫 ISBN:4575713104)のなかに、同じような感覚について書かれていた。

……私が憎悪と軽蔑を覚えるのは、次のような例である。
 2000年2月3日の産経新聞は、参議院本会議での代表質問を、共感を込めて次のように報じている。
 自民党村上正邦参議議員会長は「自国の言語、文化を軽んじた民族は衰退する」
と力説し、「中曽根弘文文相にゲキをとばした」そうな。
……
「檄を飛ばす」の「檄」には木偏があるように、木札である。そこには決起を促す文が書いてある。これを全国に「飛ばし」、同志を集める。それが「檄を飛ばす」だ。現代風に言えば、アジトからアジビラを全国に発送するとか、インターネットで呼びかけることである。目の前にいる人に檄を飛ばしようがない。
 私がこの記事を醜悪だと思い軽蔑するのは、自国の言語や文化の尊重を言う当の文章がいかささかも自国の言語や文化を尊重していないからである。
 この傾向は、自称「保守派」、自称「伝統派」に著しい。

先日、書店で、江戸時代の絵画に関する本を眺めていたら、 新しい歴史教科書をつくる会が編纂した田中英道「国民の芸術」(産経新聞ニュースサービス ISBN:4594037577)という本があり、ぱらぱらとめくってみたが、あまりにもひどい内容なので驚いてしまった。いちいち批判するのも面倒で疲れる程度だった。
新しい歴史教科書をつくる会のウェブサイトに、この本の紹介と著者のインタビューがある(http://www.tsukurukai.com/09_kokumin_book/kokuminbook_geijutu.html)。そのなかにこんな発言がある。

西洋の芸術価値を知った人は、日本の美も同じように世界基準で理解できるということを示していると思います。西洋人であっても西洋をよく知らない人は、日本文化も正しく評価していません。

この田中英道という人は、西洋美術史が専門で、その領域ではしっかりした研究者らしい。「西洋の芸術価値」を身につけており、その視点から日本の「芸術」を評価する。だから、「国民の芸術」のなかでも日本の芸術をもちあげるために、ヨーロッパと同じものが日本にもあった、しかも、ヨーロッパより早い時代に、という論法をくり返し持ち出してくる。しかし、現代に生きていて、「西洋の芸術価値」は普遍的ではないということに気がつきもしないとはどうしたことだろうか。
私自身、伝統文化には愛着はあるし、どちらかといえば保守派の部類だと思う。しかし、自称「保守派」、自称「伝統派」には、ほんとうにうんざりさせられることが多い。
犬儒派だもの」に、教養について次のように書かれている。

 産経新聞紙上で2001年6月末から「教養」をめぐって論争が起きている。
 まず、6月24日、東大教授の坂村健が「現代日本人にとって『教養』とは?」という一文を寄せた。坂村は情報工学が専攻の学者である。
 坂村は教養を二つに分ける。一つは、一般に国民が身につけるべき基礎知識、もう一つは人間性を豊かにする文化的知識、この二つである。前者は、科学技術に関する知識や民主主義的な政策決定に必要な知識であり、これこそが現代日本人にとっての教養である。後者は、古典文学、とりわけ漢文訓読のたぐいで、こういう教養も意味がないわけではないが、限られた教育時間内での優先順位は低くて当然だ。古典文学によって国民精神が形成されるという意見もあろうが、「少年ジャンプ」を読めばそんなものは形成される。古典にこだわるのはスノビズムにすぎない。と、きわめて明快である。
……
 ……では、この両論のどちらに私が与するかといえば、坂村の方である。

私もこの意見に同意する。
私自身、最近でこそ、古典のおもしろさが徐々にわかるようになってきたし、古典的教養を身につけたいと思うようになってきた。しかし、現代社会で生活する上で、必須のものでは決してないし、学校教育で広く習得する必要のあるものとは思えない。坂村健がいうように、「限られた教育時間内での優先順位が低くて当然」だと思う。
自称「保守派」、自称「伝統派」の人たちのなかに、古典的教養について教育をすべきという人がいるけれど、その当人は教育すべき古典的教養を身につけているわけでもなく、何を教育すべきかということについて見識もなければ深く考えてもおらず、単に自分の思い入れ語っていることが多い。田中英道の「国民の芸術」は、この典型例である。
ほんとうに、自称「保守派」、自称「伝統派」のひいきの引き倒し、どうにかならないものか。