王政復古

以前にも引用したことがあるが、福田和也美智子皇后と雅子妃」(文春新書 ISBN:416660466)には、興味深い記述が多い。昨日の日記(id:yagian:20060503:1146668264)で、明治政府は近世の天皇制について隠蔽したいと考えていたのではないか、ということを書いたが、この本に、近世の天皇と明治以降の天皇の関係について書かれていた。少々長くなるが、引用したい。

 安永九年(1780)年に即位し、三十七年にわたって天皇として君臨した後、上皇としても二十数年にわたって院政を敷いた光格天皇は、現在の皇室の淵源に位置している。
 光格天皇は、後桃園天皇に男子がいなかったため、養子となり即位した。光格天皇の子が仁孝、その子が孝明、そして明治とつながる。現天皇家の直接の先祖ということにもなる。
……
 光格天皇は、光格天皇は皇室の勢威の回復を、宮中祭祀の復活、復元を通して行おうとした。
 長い間中絶し、吉田神社により代行されていた新嘗祭を、御所内に神嘉殿を建設して、古式に則って復興させている。即位十六年目に大嘗祭を行っているが、この時も、貞観式延喜式にのっとった古代ののやり方にもどして―とはいえ、二百年の中絶により口伝の部分の大半は失われてしまったのだが―いる。
 光格天皇は、神道祭祀にこそ天皇の権威の本質があるとする山崎闇斎の思想を奉じ、祭祀の復興に励むことで王政復古への道を切り開いた。その点からすれば、今上陛下御夫妻がなさっているような形での、祭祀への御精勤は、近代天皇制の方向性にそのまま準じていると、ひとまず解釈してよい。つまり、光格がはじめ、仁孝、孝明が受け継ぎ、明治が開花させた路線に、今上が忠実なのだと。

宮中祭祀の中絶について、井上順孝神道入門」(平凡社新書 ISBN:4582853056)に次のように書かれている。

 律令制度が弱まるなかに形成された二十二社制度もやがて衰え、伊勢など数社への奉幣に限られるようになり、十五世紀には消滅したとされる。神祇制度崩壊を決定づけるのは応仁の乱(1467〜77)である。……
 天皇が即位したのちに行われる伊勢神宮での大嘗祭も、1466年(文正元)に後土御門天皇の即位に際して行われていたのを最後に、1687年(貞享四)東山天皇の代に江戸時代初めての大嘗祭が行われるまで二百年以上途絶した。また二十年に一度行われる伊勢神宮式年遷宮も、1462年(寛政三)に内宮の遷宮が行われてから、1563年(永禄六)に外宮の遷宮が行われるまで途絶した。

祭祀の側面から見ると古代の天皇制は、応仁の乱によって断絶したということのようだ。光格天皇は、その古代の祭祀を復活させようとしたのだから、その意味では、古代から万世一系で続く天皇制を政権の根拠とした明治政府、近代の天皇制のさきがけとなっているのだろう。
しかし、山崎闇斎神道朱子学に基礎をおいたもので、古代にじっさいに行われていた祭祀とは異なものだ。光格天皇は、古代の祭祀の復活をめざしているようで、実際には新しい祭祀を作りあげていたのだろう。その意味でも、光格天皇は、中身はまったく新しいものでありながらも、古代の王政を復古させたように見せている近代の天皇制のさきがけとなっている。
江戸時代から明治の近代化を見直す作業をしばらく続けてみようと思う。