茶碗とジーパン

先日、根津美術館に行ってきたとき(id:yagian:20060501:1146444768)、高麗李朝の茶碗が並んでいるのも眺めてきた(http://www.nezu-muse.or.jp/syuuzou/toji.index.html)。しかし、これらの茶碗の味わうのは、むずかしいと思った。
静嘉堂文庫美術館で見た尾形乾山のやきものはわかりやすい。乾山自身がいいものをつくろうと思ってつくっているから、その意図を理解することができれば、いちおう、そのやきものよさは見当がつく。
しかし、高麗李朝の茶碗は、もともとは、ごくふつうの生活雑器としてつくられたものを、茶人たちが名器として取りあげたものだ。形はゆがんでおり、きずがついている。釉薬がうまくかかっていないところもある。そういったものに美しさを見た茶人たちの美意識は複雑で、なかなか理解できない。ならんでいる茶碗のうち、どれが好みなのか、自分でもよくわからない。
根津美術館を出た後、表参道からキャットストリートを抜けて、渋谷まで、セレクトショップで売っているジーパンを眺めてみた。ジーパンを買うのは久しぶりで最近のジーパン事情がわからず、自分が欲しいジーパンのイメージがわかなかったので、とにかく、ジーパンをたくさん眺めてみることにした。
最初は、よくわからなかったけれど、五、六軒も見てみると、だいたい最近の傾向と自分の好みがわかってくる。だんだん、色落ちや穴のあき方にも、自分なりの好き嫌いができてくる。
こういうジーパンの世界は、茶器の世界と同じだと思う。ジーパンも、いきなり一本だけを見て良し悪し、好き嫌いを考えようとしてもとてもできない。ある程度まとまった種類を見れば、大げさにいえば、自分なりの美意識ができてきて、判断ができるようになる。茶碗の良し悪し、好き嫌いがわかるようになるには、大量の茶器を見なければ無理なんだろうと思う。
芸術はむずかしくない、そのまま見ればいいということを言う人がいる。たしかに、一面の真理ではあるけれど、それだけではないと思う。見る前に理屈を頭に詰め込んで、見えるはずのものを見ていない、というのは愚かだ。しかし、ある程度見ることをしなければ、自分の好みすらわからない。見るれば見るほどに目が肥えてきて、今まで見えなかったものが見えるようになってくる。目が肥えてはじめてわかる美意識もたしかに存在する。
そんなことを考えながら、また、茶道のお稽古を復活しようかと思ったりもした。