芭蕉の感動のありか

松島観光をしてきた。
仙台駅から仙石線に乗り、塩釜をすぎトンネルを抜けると松島の景色が目に入ってくる。その時、これは日本画の松林の絵そのものだと思った。
松島は、日本三景のうちのひとつとされている。芭蕉が、感動のあまり句をつくらなかったというエピソードも有名だ。しかし、現代人が松島の景色を見て、声がでないほど感動するということはないだろう。少なくとも、私自身は、そこまで感動することはない。それでは、なぜ、芭蕉はそれほどまでに感動し、私は感動しないのか。
芭蕉が松島の景色を見て美しいと思うのは、日本画、それも、狩野派の絵を重ね合わせているからではないかと思う。美しいとされている狩野派の金屏風の松林の絵の実物がそこにあったから、松島の景色を美しいと思ったのである。
私は、松島の景色を見て、狩野派の絵を連想はする。しかし、狩野派の絵を、美しいと思って感動したことはない。芭蕉とその時代の人びとが共有していた美意識を、私は理解はしつつも、自分自身の美意識として共有、内面化するまでには至っていない。だから、芭蕉が松島の景色に感動した理由は想像できるけれど、感動そのものは共有できない。
遊覧船に乗った後、伊達政宗が再建した瑞巌寺に行った。そこには、狩野派の障壁画があった(http://www7.ocn.ne.jp/~zuiganji/oheya.html#n1)。金箔の上に、原色の緑で松が描かれている。芭蕉は、寂びを尊んだといわれることがある。それは、その通りかもしれないが、芭蕉には、狩野派の障壁画とそれに通じる松島の景色を美しいと感じる美意識があった。おそらく、芭蕉の寂びというのは、寂びだけが独立したものではなく、狩野派の絵のようなはなやかさと対比するものとしての寂びだったのではないか。
このゴールデンウィークの間、琳派の絵が見られる展覧会がめじろ押しだ。私も、静嘉堂文庫と根津美術館に行ってきた(id:yagian:20060501:1146444768 id:yagian:20060502:1146548741)。しかし、江戸時代には、琳派よりは、狩野派や円山派の方が主流だった。現代では、狩野派の評判は悪く、逆説的な意味でもなければ(例えば、板橋区美術館「これが板橋の狩野派だ!」展 http://www.city.itabashi.tokyo.jp/art/schedule/now.html)、展覧会が行われることはなかなかない。芭蕉も、江戸時代人として狩野派の絵を美しいと尊ぶ美意識を持っていたはずだ。
私は、瑞巌寺狩野派の絵を見ていると、やっぱり琳派の方がいいと思う。しかし、琳派の絵を見ただけでは、なぜ、こういった絵が描かれるようになったのか理解できないとも思う。狩野派の絵をたくさん見て、それに飽き、その上で琳派の絵を見てはじめて、江戸時代人、例えば、酒井抱一尾形光琳への感動を共有できるのではないかと思う。
現代の江戸時代の思想史では、荻生徂徠本居宣長が最も重要な人物として取りあげられる。しかし、同時代では琳派が主流でなかったように、彼らも主流ではなかった。主流は、江戸幕府の正学とされた林派の朱子学である。荻生徂徠本居宣長も、朱子学を充分理解し、それへの批判を行った。本居宣長の漢意批判を理解するためには、まず、朱子学を理解することが必要なのだろう。
私が大学生だったころ、「ニューアカ」がはやり、フランスのポスト・モダンの現代思想ファッショナブルだった。ポスト・モダンの思想家たちは、荻生徂徠本居宣長朱子学を熟知した上で批判していたのと同様に、モダン(近代)の思想を熟知した上で批判していた。しかし、私自身は、近代思想をよく知りもせず、ポスト・モダンの思想家たちの本を読み、生半可な理解で、モダンの思想はダメなんだなどと思っていた。もちろん、それは大きなまちがいだった。
過去というものは、常に、現在の視点から読みかえられる。過去の人びとの考え方、感じ方を完全に共有することはできない。しかし、現在の視点は、唯一のものではない。現在の視点を相対化するためには、過去の人びとが、同時代にはどのように考え、感じていたのかを想像することが重要だ。
なぜ、芭蕉は松島の風景に感動したのか。そして、今の私は同じようには感動できないのか。松島の景色と瑞巌寺の襖絵をながめながら、そんなことを考えていた。