ブラックホール

最近、父親が村上春樹にはまっている。本屋で村上春樹関係の本を見つけると、すかさず買うという。
このまえ実家に帰ったとき、佐藤幹夫村上春樹の隣には三島由紀夫がいつもいる。」(PHP新書 ISBN:4569649343)を読んで、感想をウェブログに書くように言われ、渡された。このエントリーは、この本の読書感想文である。
佐藤幹夫が、村上春樹羊をめぐる冒険」(講談社文庫 ISBN:4062749122)について、このように書いている。

……初読以来、筆者には、『羊をめぐる冒険』は難解であるという印象が強く残っていました。そうとうに手ごわいのです。
 むろん文章は平易です。ストーリーも趣向が凝らされ、最後のどんでん返しまでぐいぐい引っ張っていく力はありますし、それなりに「わかる」作品です。しかし、どうにも何かがくすぶっていて、隔靴掻痒、打率一割未満という感じが抜けないのです。

また、「ノルウェイの森」(講談社文庫 ISBN:4062748681)については、このように書いている。

 優れた小説には二通りあるようで、一つは、独語の感銘をいろいろ言葉にしてみたくなる、感銘をだれかに伝えて共有したくなる、というタイプの作品です。もう一つは、感銘は深いが、言葉にしがたい、易々と言葉にすることを許さない、というタイプの作品です。そして『ノルウェイの森』はどうも後者のようなのです。「100パーセントの恋愛小説」というキャッチコピーで十分にいいつくされている。『ノルウェイの森』という作品はそうかんじさせるところがあります。
 このことをひと言でいいかえるなら、『やさしい小説』の難しさです。だれにでも開かれたやさしい語り口ではあるが、感銘を言葉にしようとすると難しい。小説言語以外の言葉への翻訳が難しいといってもいい。作品を批評的に分析し、近づこうとすればするほど、作品世界そのものから遠くなってしまう。

村上春樹の小説を読むと強い感銘を受ける。その感銘を言葉にするのが難しい。難しいけれど、言葉にできないかと思う。なんとか言葉にしようと思ってウェブログに文章をつづるけれど、なかなか感銘そのものにたどり着くことができない。
佐藤幹夫は、この本のなかで夏目漱石「こころ」(新潮文庫 ISBN:4101010137)について言及している。

 筆者には、書かれざる一章があるのではないか、この小説は未完なのではないか、そう感じられてなりませんでした。……
 ところが、いま、また別の見解にいたっています。筆者が謎だと感じたところにこそ、漱石の大いなる意図があって、また『こゝろ』と題したゆえんなのではないか。作品のところどころにぽっかりと空いた大きな穴、まるでブラックホールのような穴こそが「こころ」であり、そのことこそ漱石が書きたかったのではないか。そう感じているのです。

夏目漱石だけではなく、村上春樹もあえて書かない部分、「ブラックホール」を残すような書き方をしている。例えば、「三四郎」(新潮文庫 ISBN:ISBN:4101010048)では、あえて未熟な三四郎からの視点から描かれているため、美禰子は謎の女「ブラックホール」になっている。
そのブラックホールへの疑問が、読者を引っぱる原動力となっている。ミステリー小説とは違うのは、夏目漱石村上春樹の小説は、最後までその謎の種明かしがされないままに終わる。だから、読み終わった後、感銘をうけつつも隔靴掻痒という感じが抜けず、それをことばにしたいと思うようになる。「三四郎」の結末に、美禰子が彼女の真意を語るような場面があったら、この小説の魅力は半減しているかもしれないし、この小説に関する評論がこれほど書かれることはなかっただろう。
村上春樹は、自分の小説が文庫化されたとき解説をつけさせない。意図的に「ブラックホール」を残し、読者に多様な解釈を許す書き方をしているのだから、他人の解説によって解釈が限定されてしまうことを避けるのは当然だろう。もちろん、村上春樹自身も、自分の作品への言及は注意深く避けている。
夏目漱石村上春樹の小説の魅力の一端は、「ブラックホール」を残す書き方にある。しかし、「ブラックホール」を残す書き方をすれば、魅力のある小説になるわけではない。どのように「ブラックホール」を残しているのか、その方法がわかれば、彼らの小説作法の秘密に触れることができるかもしれない。