「みづからの事」と「他のうへの事」

ダイエットに入る直前、お菓子づくりをはじめていた。しかし、お菓子に入れるバターと砂糖の量を考えると、ダイエット中のいまはとてもつくる気にならない。けれど、無性に、粉をこねたくなったので、お菓子の代わりにパンをつくることにした。
さっそく初心者向けのレシピを買ってきてパンづくりを試してみた。うちにあるのは、電子レンジと一体になっている簡易なオーブンだけれども、味のことは気にしなければ、いちおう「パン」が焼き上がり、うれしかった。
初心者向けのレシピなので、それほどむずかしくもなく、面倒でもない。発酵させるための待ち時間があるけれど、DVDを見ながらピラティスを1セットやるのにちょうどいい。
しかし、このレシピで何回かつくっていると、それなりの「パン」しかできないことが、やや飽き足らなくなってくる。銀座のプランタンの地下にあるビゴのパンが好きなので、そんなパンをつくりたいと思い、フィリップ・ビゴ「フィリップ・ビゴのパン」(柴田書店 ISBN:4388059803)を買ってみた。これは初心者向けのレシピと違って、本格的すぎて、とても手に負えるものではなかった。しばらくは、初心者向けのレシピを基本にして、ビゴのパンを参考にしながら、少しづつ改良していこうと思う。
以前は、パン屋に行っても、何気なく買っていたけれど、最近では、生地、発酵の仕方、焼け具合なんかが気になる。買いもしないパンでも、顔を近づけてじっくり眺めてしまう。パン屋にとっては、迷惑な客かも知れない。
あいかわらず、小林秀雄本居宣長」(新潮文庫ISBN:4101007063)を、行きつ戻りつしながら読んでいる。
私は、和歌のことはよくわからないけれど、契沖や宣長は、大量の歌を詠んでいるけれど、それらがことごとく凡庸な歌だという。

……宣長も亦同じ種類の疑念を、世人に抱かせたとは言えるだろう。宣長の歌稿集「石上集」の歌は、八千首を超えるが、契沖の「漫吟集」も、家集としては大変大きなものであり、恐らく歌の数は、宣長に負けないだろう。二人は、少年時代から、生涯の終りに至るまで、中絶する事なく、「面白からぬ」歌を詠みつづけた点でもよく似ている。

それでは、なぜ、宣長は「面白からぬ」歌を詠みつづけたのか。

「すべて人は、かならず歌をよむべきものなる内にも、学問をする者は、なほさらよまではかなわゆわざ也、歌をよまでは、古への世のくわしき意、風雅のおもむきは、しりがたし」、「すべて万ヅの事、他のうへにて思ふと、みづからの事にて思ふとは、深浅の異なるものにて、他のうへの事は、いかほど深く思ふやうにても、みづからの事ほどふかくはしまぬ物なて、他のうへの事は、いかほど深く思ふやうにても、みづからの事ほどふかくはしまぬ物なり、うたもさやうにて、古歌をば、いかほど深く考へても、他のうへの事なれば、なほ深くいたらぬところあるを、みづからよむになりては、我ガ事なる故に、心を用ること格別にて、深き意味をしること也、さればこそ師も、みづから古風の歌をよみ、古ぶりの文をつくれとは、教へられたるなれ」(うひ山ぶみ

人ごとと自分のことでは理解の深さが違う。古代の歌や文章について研究するならば、自ら古代風の歌や文章を作り、自分のこととして理解を深めるべきだ、という。
たいしてパンをつくっているわけではないけれど、人がつくったパンを「他のうへの事」として食べるだけだった頃と、自分でパンをつくって「みづからの事にて思ふ」ようになった今とでは、パンへの理解の深さがまったく違うと感じている。
自分は、小説を書いたことはないけれど、道楽で小説の翻訳をたまにすることがある。じっさいに自分の手で小説の翻訳をするようになった前と後では、やはり、小説への理解の深さは違う。おそらく、翻訳をするのと、じっさいにオリジナルの小説を書くのとでは、小説への理解の深まりは違うのだろう。いずれ、自分で小説を書いてみなければと思う。
もちろん、フィリップ・ビゴと私とでは、パンへの理解の深さはまったく違う。しかし、いくら稚拙であっても「みづからの事」としての理解は、「他のうへの事」としての理解とは違う深さがある。これからも、いろいろなことを、とりあえず自分の手でやってみようと思う。
それにしても、ダイエットをやっていて、日々体重計に乗って一喜一憂し、休日の趣味はパンづくりで、最近はピラティスも始めました、なんて、まるでOLのような生活だ。