せいふぁーうたき

夏休みに旅行で沖縄本島斎場御嶽(せいふぁーうたき)(http://www.churashima.net/shima/okinawa/isan/20010301/05.html)に行ってきた。
御嶽(うたき)とは、沖縄の伝統的な信仰の礼拝の場で、内地でいえば神社にあたる。斎場御嶽は、琉球王国でもっとも格式の高い御嶽で、神女の組織の最上位に立つ聞得大君(http://www.tabiken.com/history/doc/E/E159L200.HTM)就任式が行われていた。つまり、内地でいえば、伊勢神宮に比べることができるだろう。
しかし、御嶽は神社とは違い、斎場御嶽伊勢神宮と異なっている。斎場御嶽には、建物があるわけではなく、常駐している神官がいるわけでもない。山のなかの自然な岩の下、礼拝にふさわしい場所を選んで、御嶽としている。その場に立つと、神々しいところで、こんな場所があったということ、そして、その場所を選んで御嶽としたことに、驚き、納得する。斎場御嶽は、観光ルートからはずれているけれど、一見の価値がある。
稲本がウェブログで「一般論だが、建築物は、時代が下るにつれて、下品になってくる。」(id:yinamoto:20060825)ということを書いていた。その意味では、斎場御嶽は、無駄なものがなにひとつなく、俗っぽさがかけらもなく、実に上品だ。
しかし、斎場御嶽にいると、感動しながらも、さびしい気持ちになる。いまは、聞得大君はおらず、斎場御嶽でかつて行われていた礼拝は、もう、行われることはない。斎場御嶽には、建物がなく、礼拝の場があるだけである。それだけに、いまの斎場御嶽が抜け殻であることが、よりはっきりと感じられるからだ。
伊勢神宮は、式年遷宮も行われているから、一見、いまでも生きているように見えるけれど、実際には、少しずつ死につつある。斎場御嶽は、よけいなものが何もないから、今はもう、死んでしまっていることがはっきりとわかる。いま、斎場御嶽に感動することは、ティラノザウルスの化石を見た感動と同じだ。
首里城を再建したり、斎場御嶽の前に駐車場を整備することはいいことだ。私のような観光客が斎場御嶽を見ることができる。しかし、ほんとうに琉球の伝統を再興させるためには、琉球王朝と聞得大君と斎場御嶽での儀式と禁忌を復活させなければならないのではないか。