資本主義的勤勉さ

マックス・ヴェーバープロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(岩波文庫 ISBN:4003420934)を読み、いちばん印象に残っているのは、金銭欲、拝金主義というのは歴史的、地理的に普遍的だけれども、近代資本主義を支えている精神、エートスは特殊なものだ、という指摘である。この本の主題は、その特殊な「資本主義の精神」の起源が、「プロテスタンティズムの倫理」にあることを論証することだけれども、私にとっては、その前提となる「資本主義の精神」の特性についての記述の方が興味深い。
いくつか、関連する部分を引用してみようと思う。

……職業義務(Berufsspflicht)という独自な思想がある。……労働力や物的財産(「資本」としての)を用いた単なる利潤の追求の営みに過ぎないにもかかわらず、各人は自分の「職業」活動の内容を義務と意識すべきだと考え、また事実意識している、そういう義務の観念がある。―こうした思想は、資本主義文化の「社会倫理」に特徴的なもの……

ごく最近も同じ部分を引用した(id:yagian:20060823:1156339822)けれど、実際、自分にもこのような「職業義務」という観念があり、内面化されているだけではなく、会社で働いている時には、関係者に対してもこのような「職業義務」を持っていることをごく自然に期待している。また、このような「職業義務」を内面化されていない人とは、仕事がしにくいと考えている。おそらく、このように考えているのは自分だけではなく、いわゆる「ビジネス」の社会では共有されている考え方だろう。マックス・ヴェーバーが指摘していることは、現代日本の資本主義文化の「社会倫理」においても特徴的なことだと思う。

……「伝統主義」とよばれるべき生活態度……人は「うまれながらに」できるだけ多くの貨幣を得ようと願うものではなくて、むしろ簡素に生活する、つまり、習慣としてきた生活をつづけ、それに必要なものを手に入れることだけを願うにすぎない。近代資本主義が、人間労働の集約度を高めることによってその「生産性」を引き上げるという仕事を始めたとき、到る所でこのうえもなく頑強に妨害しつづけたのは、資本主義以前の経済労働のこうした基調だった。現在でも、資本主義の土台となっている労働者層が「立ち遅れ」(資本主義の立場からみて)ていればいるだけ、この障害がどこでもよけいに強い。

「論争格差社会」(文春新書 ISBN:4166605224)という、格差社会に関する論考、対談を集めた本がある。そのなかに、渡部昇一日下公人の「二極化社会も悪くない」という対談がある。その内容、結論についてはまったく同意できないが、ヴェーバーがいう「伝統主義」にかかわる言及があったので引用したい。

渡部 私の友人が山形県庄内地方に工場を建てたとき、土地の人がじつによく働いたそうです。織物工場ですが、朝六時ごろ来て、自分のやる仕事をチェックしている。同じつもりで別の地域に工場を建てたら、社員は全然働かなかったらしい。
日下 人が見ていなくてもやるのが中流です。監督がなかったら何もやらないのが下流。そういう人たちがアジア各地にたくさんいる。これまで日本には下流の人がほとんどいないと考えられていましたが、だんだん出てきているということでしょう。
渡部 私の知り合いに聞いたのですが、勤めていた派遣社員が正社員になった時、最初のボーナスをもらった二日後に辞表を出したそうです。これは人間関係がきちんと築けている正社員にない、派遣社員ならではの下流の発想だと感じました。 

この対談では、「中流」「下流」という言葉を使っているけれど、上、下ということではなく、「資本主義の精神」を身につけているか、「伝統主義」とよばれるべき生活態度であるかの違いだろう。「伝統主義」と「資本主義の精神」の間に倫理的な優劣はないけれど、「資本主義の精神」との親和性が乏しい地域は、たしかに、資本主義経済の浸透しにくいのは間違いないだろう。
「資本主義の精神」が普及する以前に、お金を儲けようとする人がいなかったわけではない。また、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」から引用したい。

……貨幣を渇望する「衝動」の強弱といったものに資本主義とそれ以前の差異があるわけではない。金銭欲はわれわれの知る限り人類の歴史とともに古い。あとで見るように、金銭欲への衝動にかられて一切をなげうった連中は……決して、近代独自の資本主義「精神」が大量現象として……出現する、その源泉となった心情の持ち主ではなかった。どんな内面的規範にも服しようとしない、向こう見ずな営利活動は、実際それが可能でありさえすればどこであれ、歴史上いつの時代にも存在していた。

堀江貴文は、「金銭欲への衝動にかられて一切をなげうっ」ているように見えるが、その営利活動を義務と考えているように見えないし、倫理的なものだと正当化することもしない。彼の信条は、古典的な拝金主義であり、近代的な「資本主義の精神」とは遠いように思う。
それに対し、M&Aコンサルティング村上世彰は、自分の活動について非効率な会社経営を正し株主価値の向上させるという大義名分を掲げ、彼自身の内面的な信条はわからないけれど、少なくとも、外面的には「資本主義の精神」に忠実であることを示している。
ニッポン放送買収の件では、村上世彰堀江貴文を「はめた」ようだが、村上世彰から見れば堀江貴文は「資本主義の精神」に基づく倫理を共有していないから、だましても倫理的な問題がないと考えたのかも知れない。
ふたたび、「論争格差社会」から引用したい。斎藤環の「ニートがそれでもホリエモンを支持する理由」からである。

 英国経済誌『エコノミスト』編集長のビル・エモットは淡々と身も蓋もないことを言う。「拝金主義はもともと日本という国の一要素ではないのか。金と文化の問題は、いつの時代も年配世代の伝統的な嘆きなのだ。バブル時代が良い例だ。『マルサの女』という素晴らしい映画は、政治とヤクザと商売の拝金主義を描いたものだった」「日本のベテラン世代が今、事件を日本の堕落の兆候だと批判するのは、間違っている。どんな社会にも強欲を象徴する人間はおり、それ以外を重視する人間もいる。それが普通のバランスなのだ」(2006年1月31日付け『読売新聞』朝刊)

ビル・エモットの指摘は正しいと思う。堀江貴文は、今も昔もいる拝金主義者であり、あまり新味を感じない。
さらに、「ニートがそれでもホリエモンを支持する理由」から引用する。

 私の考えによれば、いまやためらいなくこうした倫理観や価値判断を口にすることができる感性こそが「勝ち組」的なのである。なんと彼らは驚くべきことに、他人に対して適切な意見を述べたり、説教したりしようとするのだ。そうした言動の基本にあるのは、自身の生き方や、価値観に対する揺るぎのない自信である。いったいどのような修行をすれば、そのような境地に至りうるのだろうか。これは皮肉ではない。精神医学にとって、「勝ち組」はひとつの謎なのだ。私は純粋に学問的な関心から「勝ち組」の発達心理学に興味津々である。なにしろ彼らは過去を捏造する。とりわけかつての日本人がみな勤勉で実直だったに違いない、という思いこみを。これを医学的には「妄想追想」と呼ぶ。

斎藤環は、営利を追求してきた、そして、その過程では胸を張れないこともしてきたであろう「勝ち組」が、なぜ、自分のことを倫理的に優れていると考えることができるのか、疑問に思っているようだ。ヴェーバーをふまえて考えると、資本主義社会での「勝ち組」は、資本主義文化に適応した人たちだから、「資本主義の精神」の内面化の程度が高い人が多いに違いない。だから、自分がやってきた営利活動が職業義務であり、倫理的なものでもあると信じているのだろう。だからこそ、「自身の生き方や、価値観に対する揺るぎない自信」がある。いわゆる財界人には、倫理的な発言が多いけれど、このように考えれば不思議ではない。
また、斎藤環は「妄想追想」と呼んでいるが、過去、歴史、伝統といったものは、現在の観点から都合の良いように再編成、再編集されることが一般的であるから、彼らが「かつての日本人がみな勤勉で実直だった」と思いこみ、そのように発言するのもさほど不思議ではない。
それでは、実際には、日本に「資本主義の精神」がどの程度浸透していたのだろうか。
宮本常一イザベラ・バードの『日本奥地紀行』を読む」(平凡社ライブラリー ISBN:4582764533)に、おもしろい記述があった。この本は、イサベラ・バードというイギリス人の女性が明治初年に日本を旅行した紀行文を題材にした、宮本常一の講義を書き起こしたものである。

裁判所では、二十人の職員が何もしないで遊んでいるのを見た。それと同数の警官は、すべて洋服を着ており西洋式の行儀作法をまねしているので、全体として受ける印象はまったくの俗悪趣味である。(第十九信)(引用者注:この部分は「日本奥地紀行」からの引用)

と書いてあって非常におもしろいのです。さきほどのまがいものの良い例だと思うのですが、実際に戦前に机の前に座ってまじめに仕事をしていた人が、日本に一体どのくらいいたかというと、全くひどいもので、一日中座ってはいるが、仕事はしないで時間があるとお茶を飲みに行ったり……。日本へ来た外国人が、日本のオフィスにいる人たちが怠け者だというのをよく聞くのですが、外国では時間内はみな一生懸命働くといいます。その芽生えがこの記事にあるように、つまり何をして良いかわからないのです。
……
 それを見かねたのが私の師匠の渋沢敬三先生で、先生は銀行マンだったのが日銀副総裁から日銀総裁になり大蔵大臣になった。そのとき、下で何かが起こって自分の所へ来るまで余りにも時間がかかるので、大臣みずから事務室へ出てきて、属僚の所へ来ているのを取り上げて印を押し、余分の時間があると話し合いをした。そして追放になり追放解除されたのが昭和27年、国際電電会社の社長になった。ともかく小さい個室に入り込んでいるのがいけないのだと、個室は重役室のみにし、社長以下全員椅子を並べて事務室を大きな一室にした。仕事をしているのがお互いに見えると遊べなくなり、下から文書が来ても重役の所まで早い時には30分かからなくなる。
……
 どのくらい無駄が多かったかということがわかるのですが、そのスタートは実は明治初期の官僚社会の成立した時、あるいはその以前の武家社会からひき続いたものだったのです。ですから外見は外国のまねをしていても、それはかっこうだけで何もしない。これがごく当たり前で通っていたもでわれわれはつい見のがしてしてしまうのですが、そういうわれわれの欠点を忠実におさえているという点で非常に興味のある記事なのです。

宮本常一がこの講義をしたのが昭和51年から52年だという。この時期には、日本のホワイトカラーは、けっして能率がよいとは考えられていなかったということがわかる。
また、谷崎潤一郎の「懶惰の説」(「谷崎潤一郎随筆集」(岩波文庫 ISBN:4003105575))には、次のように述べられている。

……さようにわれわれ日本人は東洋に住む人種中では最も活動的であり、最も怠け者ではないはずであるが、それでもなおこの「物臭太郎」の如き思想を持ち、文学を持っているのである。「怠ける」ということは決して褒めた話でなく、誰しも「怠け者」といわれて名誉に思う者はないが、しかしその一面において、年中あくせくと働く者を冷笑し、時には俗物あつかいにする考は、今日といえども絶無ではない。

なかなか興味深い記述である。東洋全般に「資本主義の精神」は浸透していないが、そのなかでは日本はまだ「資本主義の精神」を身につけている方だ、しかし、東洋的懶惰は根深く染みこんでいるというのだ。この「懶惰の説」が書かれたのは昭和5年である。この時期には、西洋諸国に比べ、日本の方が勤勉であるという通念は、必ずしも一般的ではないようだ。
次の事例は、中谷宇吉郎の「日本のこころ」(「中谷宇吉郎随筆集」(岩波文庫 ISBN:4003112415)所収)である。これは、正確な年代はわからないが、昭和20年代の中頃に書かれたもののようである。

 現在の日本人が一番学ぶべきことは、アメリカの能率である。……重視すべきものは、アメリカ人の勤労精神である。……感心なのはデスクの仕事をしているホワイト・カラーの人たちの仕事ぶりである。
 こういう事務をとっている人たちは、次から次と書類が来るといっても、ベルトにものが載って流れて来るのとはちがう。ちょっと息を抜くことは、もちろん可能である。しかし、執務時間中は、ほとんど煙草も喫まず、お茶など決して飲まない。……日本の官庁などでは、客がのべつ幕なしにあり、給仕がまたのべつ幕なしにお茶を運んで来る。隣の席では、二、三人かたまって、煙草の煙をもうもうとさせながら、雑談をしていることがよくある。ああいう景色を見馴れているものの眼には、アメリカの官庁や会社の執務室に漲っている勤労意欲は、まことに異様な趣きを感じさせる。そしてアメリカ人に幸福をもたらしている、あの厖大な生産の基礎は、この能率生活にあることを痛感させられる。

かつては、ホワイトカラーの生産性についての議論を見かけた覚えがあるが、最近はあまり目にしない。自分の会社の状況を振り返ってみると、入社すぐの十数年前に比べれば、現在の方が生産性はずいぶん高くなったように思える。かつては、中谷宇吉郎が描く日本の官庁の状況に近いところがあり、夕方になると部長宛に、銀座のママから営業の電話が入ったりしたものだった。しかし、現在では、組織のフラット化が進み、管理職、間接部門の社員も少なくなり、社用も整理され、効率は高まっているように見える。会社から社員に対して、効率よく働くことを求める圧力も高まっているし、社員の多くも、それを当然のこととして受け入れているように見える。
こうして並べてみると、明治から昭和にかけて、日本への「資本主義の精神」の定着のプロセスが推測できて興味深い。すくなくとも、過去において「日本人がみな勤勉で実直だった」という認識は、必ずしも一般的ではなかったし、おそらく、全面的な事実でもなかったであろうことは明らかだと思う。
ヴェーバーは、このような「資本主義の精神」の徹底が、何をもたらすのか、ということまで予見している。

精神のない専門人、心情のない享楽人。この無のものは、人間性のかつて達したことのない段階にまですでに登りつめた、と自惚れるだろう

確かに、現在の企業社会での成功者の自己確信には、ヴェーバーがいう「自惚」れを見て取ることができる。