萌芽と先駆

小林秀雄「考えるヒント2」(文春文庫 ISBN:4167107023)は、軽い題名に比して、内容は濃くて読み応えがある。江戸時代の思想をめぐる考察がテーマとなっている。
最近、小林秀雄を読み始めたのは、本居宣長に興味を持ったからだ。宣長に興味を持ったのは、彼の国学に、近代的な要素があるように見え、それはなぜなのか、不思議に思ったからだ(id:yagian:20060410:1144675775)。
「考えるヒント2」のなかで、宣長荻生徂徠が近代的かのように見えることについてこのように書かれていた。

……宣長の学問には、既に近代的意味での文献学的方法があったということを言いたがる。余計な世話を焼くものである。そんな空世辞を言ったところで何も得るところはない。得られるところは、ただ宣長の思想の幼稚と矛盾である。宣長は、自身も言うように、ただ物を「おほらかに見た」ので、客観的にも実証的にも見たのではない。……
……
 仁斎の学問の文献学的な方法は、徂徠に受け継がれて、拡大されたと言われる。今日のようなはっきりした形で在ったのではないが、すいうものの先駆的な形、そういうものの萌芽は、明らかに彼等の仕事に伺える、とする。こういう説を、頭から否定しようとするのではない。そんな事は、道理上出来はしない。今日、私達が持っている知識を、過去の人の仕事の或る面に結びつけて考えていけない理由はないからだ。私の言いたいのは、ただ次のような事である。事の萌芽は確かにあったと考えてみるのは差し支えないが、そう考える時、萌芽という言葉は、事を成就した当人の発明品であり、従ってその言葉の真意は、当人しか理解出来ないものであったという、その事をこころに止めて置く事は、大変困難な事だ。人間の仕事の歴史をさかのぼり、いろいろな処に、先駆者を捜してみるのも、歴史を知る一法だが、一法に過ぎない。例えば、先駆者徂徠は、私達が歴史を回顧して、はじめて描ける像であり、それは徂徠の顔というようり、むしろ私達の自画像である。これを忘れて了うのは愚かであろう。歴史を知る一法は、歴史を忘れる一法と化し兼ねないのである。
……
……誰も後世の人々に解り易いように生きはしなかった。生きられた筈もなかった。

確かに、宣長を近代の実証的な学問の先駆者として捉えると、うまく理解できないところがある。宣長は、非常に、客観的、実証的に見えながら、急に神がかったかのようなことも書く。宣長を近代の先駆者として位置づけると、矛盾しているように見える。しかし、宣長自身にとっては、なんの矛盾もなかったはずだ。たしかに、宣長は、「後世の人々に解り易いように生きはしなかった」のだろう。
これまで、過去に現代を投影して自分の都合の良い伝統をつくりあげることの愚かさについて書いてきた。例えば、源氏物語に小説の先駆を、鳥獣戯画にマンガの先駆を見るのは愚かなことだ。しかし、自分も同じ愚を犯していた。たしかに、宣長を近代の先駆として見るのは愚かなことだった。宣長宣長として味わうべきだろう。