オリエンタリズム

先日、テレビで「ラスト・サムライ」を見た。
トム・クルーズが演じる主人公のネイサン・オールグレンは、南北戦争の英雄だが、その後、ネイティブ・アメリカンとの戦争を通じて彼らの勇敢さを尊敬するようになったが、それにもかかわらず彼らを虐殺したことに罪悪感を持ち続けている。アメリカにやってきた明治政府の参議である大村は、オールグレンを軍事顧問として雇う。大村は、大久保利通大村益次郎を混ぜたような人物で、日本の近代化を進める独裁的な権力者である。
オールグレンは来日し、農民を主体とし、近代的な銃器で武装された新政府軍を訓練する。訓練が不十分だった新政府軍を率い、渡辺謙が演じる勝元の軍勢と戦うことになる。勝元は、西郷隆盛楠木正成を混ぜたような人物である。勝元の軍勢は、サムライスピリットに従い、銃を使わず、鎧に身を固め、刀と弓矢で戦う。訓練が不十分だった新政府軍は勝元の軍勢に蹴散らされ、オールグレンは囚われの身となり、勝元の軍勢とともに山中の村で暮らすことになる。しだいに、オールグレンは勝元の崇高さに打たれ、彼らとともに大村の軍隊と戦うことになる。
日本人の目から見れば、不自然なところはいくらでも指摘できるし、サムライスピリットはかなり美化されているけれども現実の歴史の武士たちとはかけはなれている。西洋から見た幻想としての日本という意味で、この映画はオリエンタリズムの所産であることがよくわかる。
自分たちがオリエンタリズムの対象となれば、これはオリエンタリズムだということはすぐわかる。しかし、自分以外がオリエンタリズムの対象となっているとき、特に、それが蔑視されているのではなく、美化されている場合には気がつかないことがあるのかもしれない。「ラスト・サムライ」では、日本の武士道とネイティブ・アメリカンが重ねあわされている。「ダンス・ウィズ・ザ・ウルブス」も、ネイティブ・アメリカンは美化されているが、その歴史をよく知る人が見れば非現実的な、オリエンタリズムの所産かもしれない。
私は「ラスト・サムライ」のオリエンタリズムはすぐ見抜くことができるけれども、「ダンス・ウィズ・ザ・ウルブス」のオリエンタリズムはなかなかわからない。日本人以外の人たちが「ラスト・サムライ」を見たとき、素直に実話として捉えて感動するのかもしれない。そのように感動したからこそ、あの映画はアカデミー賞の候補になったのだろう。そして、日本人であっても、歴史の知識が乏しければ、「ラスト・サムライ」を素直に歴史として見てしまうのかもしれない。
小林秀雄「考えるヒント2」(文春文庫 ISBN:4167107023)にこのように書かれていた。

 丸山真男氏の、「日本政治思想史研究」はよく知られた本で、社会的イデオロギイの構造の歴史的推移として、朱子学の合理主義が、古学古文辞学の非合理主義に転じて行く必然性がよく語られている。仁斎や徂徠の学問が、思想の形の解体過程として扱われている仕事の性質上、氏の論述は、ディアレクティックというよりむしろアナリティックな性質の勝ったものであり、その限り曖昧はなく、特に徂徠に関して、私は、いろいろ教えられる点があったが、私としては、ただ徂徠という人の懐にもっと入り込む道もあるかと考えている。

本居宣長のことに興味を持ったはじめの頃に、丸山眞男「日本政治思想史研究」(東京大学出版会 ISBN:4130300059)を読んだ。文章は固いけれど、小林秀雄のいうように、あいまいさはなく、論旨は明快でわかりやすかった。論旨が行きつ戻りつし、多彩なレトリックを使う小林秀雄より、ある意味読みやすい。
竹内洋丸山眞男」(中公新書 ISBN:4121018206)に、丸山眞男の受容され方について次のように書かれている。

 丸山は、助手論文ほかをおさめた『日本政治思想史研究』のあとがきで、津田左右吉や村岡宗嗣(1884−1946)などの従来の日本思想史研究から教えられたが、アプローチとしては古典学者を別にして「K・マンハイム(とくにその『イデオロギーとウトピー』における全体的イデオロギー概念 Totaler Ideologienbegriff)、M・ウェーバー(特に『儒教道教』および『プロテスタンディズムの倫理と資本主義の精神』に示された分析方法)であり、なお翻訳で読んだF・ボルケナウの『封建的世界像から市民的世界像へ』も少なからず裨益した」(『集』五)と書いている。……
……
 丸山は当時のバークレー校を中心にしたアメリカの日本学者に絶大なる人気があった。さきに述べた、セミナーに同行したわたしの友人のアメリカ人は、アメリカの日本学者のほとんどは丸山教教徒です、ともいっていた。……丸山の論文が、マックス・ウェーバーをはじめとする西欧の学問の分析概念によって日本の思想や文化を解剖するものだけに、外国人であるかれらには、日本論はきわめて理解しやすかったということが大いに関係していたはずである。……
……
 丸山の著作の理解しやすさは、日本のインテリについてもいえる。日本でインテリになるということは、外国語(西欧語)を習得し、西欧学問の概念や思考法の眼鏡をかけるということであった。やがて眼鏡は身体の一部のようになる。その意味では、日本でインテリとは西欧化された日本人である。だとしたら、そうしたインテリ=西欧化した日本人―理念化された西欧近代を身体化する日本人―にとっては、日本文化を理解する眼鏡は、西欧学識を通してでしかない。丸山は日本思想や文化の西欧人への仲介者だっただけではない。日本のインテリへの仲介者でもあったのである。……このような類比によって西欧化した日本のインテリは儒教や徂徠を理解することが、むしろ容易になるのである。

私自身、外国語に堪能なわけではなく、原著で読んでいるわけではないけれど、明らかに儒学国学よりは西欧学問の概念や思考法になじんでいる。それゆえ、丸山眞男は理解しやすかった。ただ、丸山眞男を通じた本居宣長荻生徂徠の理解は、いわばオリエンタリズムであるのかもしれない。私にとって、「ラスト・サムライ」の不自然さはすぐにわかるけれども、儒学になじみのない丸山眞男の不自然さに気づくことは難しい。
西欧の思考法が内面化されると、自分の文化に対してもオリエンタリズムの視線を向けることになってしまう。それを完全に避けることは難しいけれど、自分の感覚の寄って立っている基盤を、懐疑の目を向ける必要があるのだろう。