なかったかのように

年末になり、いろいろなニュース番組で、今年のニュースのランキングをやっている。スポーツ関連のニュースでは、荒川静香の金メダル、WBCの優勝、松坂大輔のボストンへの移籍、ディープインパクトの引退、新庄の活躍などが挙げられることが多い。しかし、スポーツニュースの中心となるべきは、サッカーのワールドカップだったはずだが、すっかりなかったかのような扱いである。
確かに、ワールドカップでの日本チームは、惨敗したという結果以上に、覇気が感じられ、心に伝わるものがなかった。中田英寿と他のチームのメンバー、海外組と国内組、攻撃陣と守備陣、レギュラーと控えの選手の間で対立があったという報道があった。たしかにある程度はチーム内で不仲はあったのだろうけれど、サッカー選手にとって最大の目標となる大会に、プロのなかから選ばれたメンバーでチームを作っている以上、試合になれば不仲を超えて全力を出すものだろうと思っていた。しかし、金子達仁、戸塚啓、木崎伸也「敗因と」(光文社 ISBN:4334975127)を読むと、チーム内の不仲は事実であり、それがチームが機能せず、覇気を失わせた大きな原因であり、そして、日本代表にかかわった人々の大部分が不完全燃焼であり、そのことに後悔しているようだ。
なぜ、このようなことになってしまったのか。チームスポーツでは、どのようなレベルであっても、試合に出ることができるレギュラーと控えがいる。もちろん、誰もが試合に出たいと思い、控えは好まないだろう。しかし、試合に勝つためには、レギュラーも控えも一体になって試合に勝つために最大限の努力をすべきだということは、誰もがわかっているはずだ。日本代表の選手たちそれができなかった。ひとことでいえば、彼らが子供っぽかったからだと思う。
三浦知良中山雅史秋田豊など、サッカー選手にもチームの中心になることができる大人っぽい選手がいたけれど、それから下の世代になると、そのような選手が見当たらなくなる。考えてみると、アトランタオリンピックのサッカー日本代表チームも、オリンピックの途中で空中分解してしまったようだが、そのときは、小倉、前園、城、川口、中田といった、今回の日本代表のリーダーとなるべき世代が中心だった。アトランタオリンピックの教訓が生かされないまま、同じようにチームが崩壊した。
サッカーに比べると野球の方が、チームプレイを求められる比率が低いようにも思えるが、サッカーより野球の選手の方が、大人っぽくチームに献身できる選手が多いように見える。WBCの日本代表もよかったけれど、そういう面で印象深かったのは、アテネオリンピックシドニーオリンピックの日本代表チームだ。どちらのオリンピックも優勝できなかったけれど、全力を出した松中、松坂、上原、高橋といった選手たちの姿は印象に残っている。
日韓ワールドカップの日本代表のドキュメンタリーDVD「六月の勝利の歌を忘れない」を見ると、フィリップ・トルシエという監督が、エキセントリックなところがあるけれど、情に厚く叱咤激励をして選手を育てるのが得意な教師のようなタイプだということがよくわかる。サッカーが発展途上の国の代表監督をして、ヨーロッパのクラブチームの監督としては成功できないのはそのためだ。おそらく、高校のサッカー部での熱血監督がいちばん向いているのではないか。そして、トルシエの監督ぶりについては、さまざまな評価があるけれど、子供っぽい選手が多かった日本代表には、トルシエがフィットしていたように思う。試合のときの選手起用について批判があったけれど、教師としての情が、クールな選手起用を妨げていたというところがありそうだ。しかし、ともかくも、チームが崩壊することなく、最後まで試合をすることができた。
選手を大人扱いしていたジーコ監督は、あの日本代表の選手にはもったいなかった、ということだろう。