どうもことばにならない

カズオ・イシグロ「わたしたちが孤児だったころ」(ハヤカワepi文庫 ISBN:4151200347)を読んだ。
よかった。
さて、この小説のよさについて書こうと思い、あれこれ考えているのだけれども、どうもことばになってくれない。
非常に技巧的な小説だと思う。自分なりにその技巧を読み解いた結果を書くこともできるようにも思うけれど、自分がこの小説に惹かれたのは、技巧の部分ではないように思う。だから、技巧について書いたとしたら、自分の気持ちからはどんどん遠ざかってしまいそうだ。それでは、この小説のどこがよかったのか。
カズオ・イシグロ日の名残り」(ハヤカワepi文庫 ISBN:4151200037)では、主人公の執事が仕えてきたイギリスの貴族とその世界は、二つの大戦を経て没落してしまう。この小説は、主人公の執事の一人称という形式で語られる。彼は、今は没落してしまったけれども、かつて彼が仕えていた貴族の世界をが美しい思い出として語る。読み進むにつれて、どうもその思い出が怪しいことがわかってくる。実は、主人は親ナチス派であり、執事が全身全霊を込めて準備していた国際会議も、なんら成果を得ることができなかった。主人公は、彼が属していた世界が没落してしまっただけではなく、その世界の価値が否定されるという状況に直面した。
「わたしたちが孤児だったころ」では、上海で生まれ育ったイギリス人の主人公は、子供のころ、両親がともに行方不明になり、イギリスに帰される。両親の行方を突き止めるために、私立探偵となって成功を収め、上海に戻ってくる。この小説でも、「日の名残り」と同じように、主人公の一人称の形式であり、彼の語りはどうも事実と異なっていたり、語られない部分がありそうで、やはり怪しい。彼自身は、あたかも有能で成功した探偵になり、社交界でも注目を集め、重要人物として上海にやってきたように語る。しかし、これには疑わしい点が多い。そもそも彼の探偵としての活動はあまり語られないし、上海での探偵活動も当て外れが続き、有能な探偵であることも疑わしい。そして、偶然に助けられ真相に至るのだが、もともと彼が考えいてた真相とはかけ離れており、そして、彼にとって残酷な事実を知ることになる。
日の名残り」でも「わたしたちが孤児だったころ」でも、主人公の語りは信頼できないが、それが、彼らが直面する残酷な状況の切実さを際立たせているように思う。彼らは、残酷で厳しい事実をなかなか直視せず、自分を偽り、それゆえ、適切な行動ができない。しかし、自分の人生の全体を否定されかねない状況に立ち至ったとき、それを直視することがどれだけいるのだろうか。私も、やはり、彼らと同じように自分を偽るだろう。客観的にみれば愚かな彼らの行動は、愚かな自分にとっては共感できる。
小説の終わり、最終的には、彼らも目を背けていた事実から逃げ切ることはできなくなる。そして、その事実を受け止める。それまで彼らが、空想の世界に逃げていたからこそ、その事実を受け止めたということが、より重く感じられるのである。
少しは、「わたしたちが孤児だったころ」のよさについて、言葉にできたように思う。