松井秀喜は日本の誇りか

id:keya1984さんが書かれている「歴史の中にある自分という感覚」(id:keya1984:20070102:1167710905)というエントリーを読んだ感想を書いてみたい。
このエントリーでは、日本の歴史上の先人たちの業績が現在の自分の誇りに結びつくものなのか、という問題に関して、結びつかないという立場に立つid:kmizusawaさんとid:hazama-hazamaさんのエントリーに対するkeyaさんの返答が書かれている。

彼らは歴史上の著名人そのものへの崇敬や自分との一体化ではなく、そういう人材を輩出した土壌を尊んでいるのであるから。多くの人材を輩出し得る土壌というものは、何も能力ある著名人が上意下達式に命令して形成されたものではない。そういう土壌は、それを大切にして維持していく多くの無名の人たちがあってこそ続いていくものだろう。

たしかに、このような意味で先人たちを誇りに思う、ということであれば納得できる。けれども、どれほどの人たちがそのような形で誇りに思っているのだろうか。実際には、先人たちと一体化して、いい気持ちになっている人が大部分ではないかと思う。
私はニューヨーク・ヤンキースのファンで、松井秀喜読売ジャイアンツでプレーしていた頃から気になる選手だったけれど、ヤンキースの一員になってから、彼のファンになった。
確かに、私がニューヨーク・ヤンキースのファンになり、松井秀喜を応援しているのは、日本において野球が盛んという土壌があり、私は子供の頃から野球になじんでいるためだ。松井秀喜がニューヨークでプレーできるのも、日本の野球の土壌があったからだ。松井秀喜に関心を持つ日本人の多くも、そのような土壌を共有しているのはまちがいないだろう。しかし、松井秀喜を日本の誇りと感じる人たちは、そのような日本の野球の土壌を尊んでいるのであろうか。また、ほんとうに松井秀喜を誇りに感じているのであろうか。
結局のところ、松井秀喜ニューヨーク・ヤンキースでの活躍するというニュースを消費して、いい気持ちになっているに過ぎない人が大部分なのではないか。日本の野球の土壌を尊んでいるのであれば、松井秀喜の活躍をきっかけにして日本のプロ野球に足を運んでもよいと思うが、寡聞にしてそのような話は聞かない。松坂大輔ボストン・レッドソックスへの移籍が大きな話題となっている。私は、彼は日本の中で突出して優れた見るに値するピッチャーと思っているけれど、松坂大輔が先発する試合であってもスタジアムが満員になることはない。イチローオリックス・ブルーウェーブ在籍時代、その能力にふさわしい待遇を得ていたとは思えない。
ニュースでは、松井秀喜の打席だけが試合から切り離されて報道され、ヤンキースの勝敗すら省略されることがある。しかし、松井秀喜の打席だけを見ても、その真価はわからない。ヤンキースでの松井秀喜は、チームプレーに徹している姿と勝負強さがによって、ヤンキースの一員としてチームの同僚やニューヨークのファンに受け入れられている。昨年のシーズン、怪我から復帰した試合でスタンディングオベーションに迎えられたのはその信頼感ゆえである。
そのようにして松井秀喜がプレーしている姿を見ていれば、日本の誇りなどというまわりくどい感想を抱くことはないのではないか。ジーターのプレーに感動するのと同じように、松井のプレーにも感動する。それが野球を見るということ、そして松井秀喜を見るということだと思う。ニュースで松井秀喜の打率とホームランの数を見て一喜一憂することも悪いこととは言わないけれども、それだけでは、今の松井秀喜の魅力は理解できないだろう。