「名文」とはなにか

「名文」とはなにか、また、どのような文章が「名文」なのか、ということがよくわからない、と考えることがある。
「名文」という言葉には、文章の内容よりも、表現の巧みさに重点を置かれている印象がある。しかし、文章がコミュニケーションの手段と考えれば、コミュニケートする内容が空疎で表現だけが巧みだという文章が成り立つのか、また、成り立ったとしてもそれが「名文」と呼ぶに足るのか疑問である。
しかし、内容はすばらしいけれども、これは「名文」として分類すべきか躊躇する文章もある。いや、そうであっても、内容のすばらしさが伝わってきたのならば、それは、その内容にふさわしい表現をしている「名文」なのかもしれないとも思う。
少々理屈っぽく考えるとすると、文章を書くには、情報を取り入れ、それを処理し、文章という形で表現するという三つの段階がある。「名文」という言葉には、三つ目の「文章という形で表現する」という段階に重きがおかれているけれど、実際には、三つの段階がそれぞれ優れていないと「名文」にならないのだろう。
最近、石川淳の文章を読むことがある。これは実に名文と呼ぶにふさわしいと感じる。観察が鋭く、知識が深く、的確に整理、配列され、的確な言葉が選ばれて文章となっている。石川淳が表現したいことが伝わり(だけではなく、読み手の水準が高ければより深い内容が理解できる)、読んでいて気持ちがいい。
論より証拠で、石川淳の文章を「諸国畸人伝」(中公文庫 ISBN:4122045924)から紹介したい。この本は、江戸末期から明治にかけて日本の各地に暮らしていた畸人たちの伝記であるが、それぞれの土地のことを紹介した部分の文章をいくつか引用したい。それぞれの土地の歴史と文化が、じつにすんなりと理解できるのである。
まずは、松平不昧公という茶人として名高い領主を持った城下町、松江の紹介の文章である。

 松江市のひとは日常よく茶をたしなむ。これは今日のことである。どこの家をたずねても、座敷にあがると、とたんに薄茶が出る。他の土地の煎茶番茶のたぐいて同様で、だまっていると、つい代りが出る。毎日十杯あまりのむひともめずらしくないだろう。これをのむにはかならずしも礼法に係らず、あぐらでがぶがぶという略式もやかましくはとがめられない。そして、およそ茶のあるところまた庭あり、いかに狭くとも狭いなりに、石をあしらい水をあしらい、きちんと庭ができている。たとえば市場の商店というざつな表がまえでも、一あし奥にはいると、たちまち右のおもむきを呈する。今だに不昧の流にしがたって、横町の溝にもさざなみは絶えないらしい。可憐である。この茶と庭との仕掛けに於て、ひとは不昧文化の今日的内容を諒解させられるだろう。つまり、げんなりするほど薄茶を飲まされるということになる。……

次は、松江と対照的な来歴をもつ山形の紹介である。その対比がよくわかる。

 山形はむかしから大名文化というものの甘酸の味を知らない土地がらであった。したがって、茶の謡のという沙汰におよばない。またあらずもがなの藩学という小言幸兵衛の世話にもなっていない。しかし、地は米ゆたかに、すこぶる紅花に富む。京紅の原料はすなわちここにあった。したがって、街の隆替は地主と金貸と紅花商にゆだねられた。もともと振るわざる大名の政治とは別に、町には町の経営がある。山形の商人の祖先は近江から出たものがおおいという。近江商人敦賀から日本海沿岸を北上して、まず仙台に入り、さらに山形に移ったようである。そこには紅花というあたらしい営業種目が待っていた。つかんだものは、これを手からはなさない。商人の手はやがて旧最上領のおちぶれた城下をつかみとるに至ったように見える。商賈の町、遠く月山を望み、近く蔵王を擁し、冬さむく、夏あつい。細谷風翁とその子米山がうまれたところは、ざっとかくのごとき沿革と風儀をもった北辺の町であった。

「名文」を読み、味わうことは、大きな楽しみである。しかし、文章の上達のためには「名文」を読むべきだという説には疑問がある。たしかに、「名文」を読むことは、なにがしか文章の上達には役立つことだとは思う。しかし、ずいぶん迂遠な方法のようにも思う。
たしかに、石川淳の文章はすばらしい。しかし、私とは、教養も知識も違い、また、表現したいことがらの志向も違いすぎるから、言い回しだけをまねたところで、私の書きたいことにはそぐわないだろう。また、石川淳の観察のしかたも参考にならないわけではないが、これも、そうたやすく身につくとも思えない。
私自身は、別段、「名文」を書こうと思って「名文」を読んでいるわけではないから、なんの問題もないのだけれども。