輪廻と仏教

正月、父親と仏教に関するの話をした。また、NHK−BSのハイビジョン特集五木寛之21世紀仏教への旅」のシリーズを興味深く見た。日本の仏教に感じていることを書こう。
インドでは輪廻という世界観が仏教の前提となっているけれど、輪廻という概念がない中国、日本において、仏教はずいぶんねじまがってしまったと思う。
仏教では、人生の本質が苦しみであることを直視し、人生の本質が苦しみであることを認識するすることによって、その苦しみを乗り越えることができると教える。しかし、そのような境地は、ふつうの人にはとてもたどり着くことができそうにもない。現代の日本に生きる私から見ると、なんと救いがない教えだと思う。救いに至る道があまりにも狭く、たどり着く境地も、救いがない教えである。それこそが世界の真実なのだろうと思いつつも、なぜ、仏陀はそんなに救いのないことを教えたのだろうかと疑問に思っていた。
文化人類学者の青木保が、タイのテラワーダ仏教(大乗仏教の立場からは小乗仏教と呼ばれている)の世界を書いた「タイの僧院にて」(中公文庫 ISBN:4122006090) を読むと、仏教の救いのなさを感じることがなく、不思議な明るさがある。その理由を考えると、輪廻を信じていることにあるように思う。
輪廻を前提とする世界では、いまのこの人生は、ほとんど永遠に続く輪廻のプロセスから見れば、非常に短いごく一瞬に過ぎない。だから、この人生で悟りに至れなくても、あわてることはない。これからずっと続く輪廻の行き着く果てに悟りに至ることができればいいわけである。だから、この通過点であるこの人生で悟りに至ることがなくても、絶望することはない。
しかし、輪廻を信じていない中国や日本にやってくると、事情が違ってくる。いまのこの人生が終わるまでに救われなければ間に合わない。出家して、修行をして、そのなかでも、ごく限られた一部の人しか悟りに至れないとすると、ほとんどの人が救われないことになってしまう。だから、出家して修行している人でなくとも救われることができるという大乗仏教という考えが出てきたのだろう。大乗仏教では、テラワーダ仏教のことを小乗仏教と貶めて呼ぶが、輪廻のある世界では、この世で救われる人がごく一部でも、永遠にも近い長い時間の流れを考えれば、いずれは救われることが期待できるから問題はないのである。
輪廻がない世界で仏教を受け入れるために、さまざまな工夫があった。親鸞絶対他力悪人正機の教えは、まさに、輪廻がない日本で仏教の救いのない教えを受け入れるための発見だったのだろう。インドでは、わざわざ、悪人こそ成仏できるのだと主張する必要はない。現世で悪人であっても、輪廻を重ねれば悟りに至るチャンスがある。在家としてせいぜい功徳を積めば、解脱に近づくことができる。しかし、輪廻がない世界で、出家して修行する機会がない悪人として生まれてしまうと、救われることがない、ということになってしまう。それゆえ、親鸞は、自力ではない救済、悪人こそ救われるという考えに至ったのだろう。
しかし、このことは、仏教の本質にかかわる問題である。絶対他力悪人正機の教えを受け入れると、出家者の集団が戒律を守るという仏教の基本を揺るがすことにもなる。事実、浄土真宗など日本の仏教では、出家者である僧侶の戒律はほとんど守られていない。出家したはずの僧侶が妻帯し、子供がいるのであれば、それは出家とはいえないではないか。
絶対他力の考え方は、ある意味、プロテスタントの予定説と似ているところがある。浄土真宗が純化するならば、プロテスタントカトリックの聖職者を否定したように、出家者の僧侶を否定して在家の信者の集団となるならば、筋が通っているといえるだろう。
個人的には、輪廻を前提とするおおらかなテラワーダ仏教に心惹かれている。それは、テラワーダ仏教が魅力的ということではなく、テラワーダ仏教を描いた「タイの僧院にて」という本が魅力的だ、ということかもしれないけれど。