西表島の炭坑労働

学生の頃に沖縄に旅行して以来、すっかり気に入ってしまい、本島、離島を含めてリピーターになっている。
沖縄の空港や土産屋の片隅に、沖縄で出版された本のコーナーがあるのを見かけることがある。沖縄の歴史、民俗、言語をテーマとした本が中心で、ぱらぱと立ち読みをして、気になった本を何冊か買ったことがある。そんな本から、西表島には過酷な歴史があったことは知っていた。いまの西表島は、八重山諸島のなかでもいちばん自然が残された島というイメージだが、かつては、入植者にマラリアが流行して無人島同然になってしまったり、炭坑で過酷な労働が行われたことがあった。
澁澤敬三著作集 第1巻 祭魚洞雑録、祭魚洞襍考」(平凡社 asin:4582429416)に、大正15年の台湾視察した紀行文が収録されている。渋沢敬三は、台湾からの帰途、西表島に立ち寄り、炭鉱の奴隷労働同然の状況を、同時代人として記録している。渋沢敬三もその状況には衝撃を受けているが、私自身も少なからず驚いた。少々長い引用になるが、関連する部分を書き写そうと思う。

 久吉丸が鬱蒼たる森林に蔽われている山深い西表島西方の祖納湾に入ったのは、朝八時頃であった。……船が着くと間もなく大きな艀が石炭を山と積んで十何艘もやって来たのには驚いたが、この石炭を本船に積み込む苦力が総て台湾人であるに至っては更に二度びっくりしたのであった。その昔は各所に村が散在し、時の中央政府たる沖縄本島から役人が何人か派遣され、相当聞えた島であったが、マラリアと猪の害に悲惨にも或いは全村全滅したり、或いは他に移住を余儀なくされたりしているうち、明治になって沖縄の人々の心も眼も東京の方に向かうとともに、ますます寂れて今は無人島の観さえ与える哀れな島となってしまった。……ところが、幸か不幸かこの島に石炭が出ることが発見されてから、突如としてここには何のゆかりもない人の群れがしかも多数に入り込まされて、鉱山にありがちな最もみじめな人間苦をなめさせられているのである。先に述べた台湾の苦力もこの群の一部であったのである。……現在ある炭坑は琉球炭坑と称するものを最大とし、その他高崎炭坑、沖縄炭坑、星ヶ岡炭坑等があるが、琉球炭坑には二千名からの坑夫がおり、その他はそれぞれ百五十名とか百名とかを使役している。
 この坑夫等のほかに、船が着くと集まってきた先の台湾の苦力が約四百名ばかりいるので、内地人にはバンカーをさせておらぬ。自分は石黒さんと共に、久吉丸の船員二名と小舟で島に上陸して手近の炭坑を見せてもらった。四十五度傾斜の坑道を垂直にして約五十尺も地下に降りるとも石炭が露出しているが、何れの炭層も厚いので三尺がせいぜいで皆横に寝ながら掘っている。全炭山皆この程度ですという坑夫の顔は極めて陰惨であった。坑道の入口に引返すと十五、六の児が素裸でふいごを動かしていた。彼等の賃金は数字のみで、物資は全て切符で給せられる。この島には料理屋もなければ酌婦もいない。彼等の内地向きの通信は皆坑主によって没収される。遠き内地からの手紙は彼等の手に渡ることは絶対にない。脱出するためには汽船に依らねばならぬ。たとい一度はうまくその島を逃れても、坑主の密偵は石垣にも宮古にも沖縄にも台湾にもいてたちまち捕らえられて送還される。こんな真似をして摑まったら最後、棍棒で殴られてから後の山の松の木に縛られマラリア蚊の襲来は逃れられぬところである。彼等の多くは甘言に乗ぜられて来た内地の善良なる坑夫または労働者である。一度この島に入れられたら最後、彼等は二度と浮世には出られないのである。世に監獄部屋という語も聞く、坑夫の惨めな話も聞いた。しかし内地に於ける彼等は如何に惨めとはいえまだまだ幸であった。文通を禁ぜられ通貨を奪われ、性欲の発動も奪われ、しかも死ぬことさえも出来ぬ彼等の如きを今眼の当り見ようとは真に真に思いもよらなかった。坑道を出て、手を洗うためとて水を運んできた爺さんの顔を見た時、思わず涙が出た。爺さんは親切であった。また素直な人であった。しかし爺さんの顔には希望も生命も消えうせていた。大震災の火事を見ているような全く自失した顔であった。爺さんには家族もあれば親類もあろう。そして双方から極力その存在を知らすことを勉めたであろうが、全てが無駄となって今はただもう単に生きているというのみである。ふいごの子供にも生気がなかった。何れを見ても生ける屍である。この状態はいわゆる労働問題を全然超越している。しかし自分は今この問題をここに詳論することを避けたい。ただ事実をありのままに記し、かつ何事かを為されねばならぬと深く感じていることだけを述べて、この問題から離れようと思う。

この文章は、あまり、人の目にとまることもないだろうと思う。多少でも読む人が増えればと思い引用した。