美と美学

柳宗悦日本民藝館に行くと、その趣味のよさに感心し、気持ちのよい時間を過ごすことができる。展示されているもの、展示の方法、建築、内装が調和しており、柳宗悦の小宇宙になっている。この空間は、他に似たものがない、非常に独創的な、唯一無二の存在だと思う。
柳宗悦は哲学者でもあるから、民芸についてさまざまな著作がある。正直に書けば、日本民藝館のコレクションはすばらしいと思っているけれど、その著作はまゆにつばをつけながら読んでいる。
確かに、日本民藝館のコレクションは、無名の職人が無心に作った雑器のなかから柳宗悦が見いだしたものが中心だ。だから、その意味で、「用の美」「他力」といったことを強調することはわからないでもない。
しかし、日本民藝館に並べられたものは、日常の雑器として使われた状態から切り離され、「展示」されたものになっている。柳宗悦の家の写真を見ていると、椅子とテーブルの生活をしており、彼が使っている雑器は、もともと使われていた生活様式から切り離されてる。
なによりも、日本民藝館のコレクションは、雑器のなかから柳宗悦が美しさを基準に選び抜いたものである。無名の職人が無心に作ったものがすべて美しいというわけではない、ということになるのではないか。
柳宗悦の言葉と、彼が作った日本民藝館とはずれているように思う。だからといって、日本民藝館のすばらしさはゆるぐわけではない。
こんなことを考えたのは、「澁澤敬三著作集 第1巻 祭魚洞雑録、祭魚洞襍考」(平凡社 asin:4582429416)が亜チックミュージアムについて書いたこんな一文を読んだからだ。

 アチックに集められた物を概観して不思議に感ずるのは、多く集めれば集るほど、それが、ある統一に向かって融合していくと同時に、そこには単一の標本の上からは見いだせない、綜合上の一種の美を感ずることである。……我々の祖先が、極めて自然裡に発明し使用してきた各種各様の民俗品の全体を綜合して考えた時、そこに我々の祖先を切実に観、またその匂いを強く感じ、懐しく思う意味に於て、自分には今アチックの蒐集は、その数量に於てたとえ僅少であっても、これは今述べた全体への一部分であって、しかもそれは確かに有機的な一部として、血も涙も通っているという気がしてならない。……これを下手物とか民芸品とか云って重んずる者は、そのものの単独の美を逐うのである。我がアチックは全体の一部として見て、これを作った人々の心を見つめようとする。即ちアチックの標本は、我々祖先の心を如実に示現している点に奇しき統一があり、そこに特殊の美を偲ぶことが出来る。

たしかに、日本民藝館に比べ、アチックミュージアムの方が、柳宗悦が書いている美学に忠実のように思える。ただ残念なことに、全国にある民俗資料館を見て、渋沢敬三の言うような「特殊の美を偲ぶ」ことはなかなかできない。おそらく、渋沢敬三は、蒐集した民具が実際に使われている場を見て、知っている。だから、蒐集された民具を見て、その「特殊の美を偲ぶ」ことができる。しかし、現代の私にとっては、残念ながら、それらの民具から「我々祖先の心」を思うことが難しくなっている。
だから、私にとっては、素材を生に近い形で陳列した民俗資料館より、近代化された意識を持つ柳宗悦が編集した日本民藝館の方が、その美しさを感じることができるのだろう。